日本人的中文

我在日本遇過不少學過中文的日本人。

這些人當中,有些人的中文是自學的,有些人則是曾經在台灣或中國生活、留學、工作過。有些人只會說幾句非常簡單的基本會話,有些人可以用中文表達複雜的事理。其中有些人還有中文的通譯案內士資格(日本的國家資格)。

有些有一定中文程度的日本人遇到我,會用中文和我對話。一開始,我真的老老實實地用中文和他們對話。因為我覺得這樣比較友善。他們對我說中文,我就回他們中文。但是這種對話經驗大多不太好,有了幾次這種經驗後,我遇到這樣的日本人時,我會直接用日語和他們對話。

我會覺得這種對話經驗不好,是因為這些對我說中文的日本人只想練習。他們把我當成語言的「練習沙包」,而不是和我溝通交流。如果他們願意和我溝通交流,我其實也很願意提供學習外語方面的經驗,但是他們幾乎不問問題。

我另外一個感覺不太好的原因,是他們的中文讓我聽得非常「累」。這種現象是發生在有一定中文程度的日本人。我在聽初學中文的日本人說中文時,反而不會有「累」的感覺。

聽初學中文的日本人說中文,不會讓我覺得累,是因為他們只會說一些簡單的定型表達,或是就只說某個常用的單詞而已。聽中文程度比較高的日本人的中文會覺得累。是因為他們的表達內容比較多,句子比較完整。

◆◆◆

我曾經遇過一名日本人在自我介紹時,說到「我的『愛好』是打網球」。讓我印象深刻。

語言的表達方式有無限多種,母語是中文的人當然也可能說出「我的『愛好』是打網球」。這句話文法正確,而且懂中文的人都聽得懂。

當時我心裡頭的疑問是:
為什麼要說「愛好」,為什麼不說「興趣」?
為什麼不說「我很喜歡打網球」?

因為當時我面對的那個場面,「愛好」這個詞用得有點生硬、彆扭。

如果對方說「我的興趣是打網球」或「我平常喜歡打網球」,我就不會覺得怪怪的。這種讓聽的人覺得生硬、彆扭的那一瞬間,就代表說話的人沒有選擇最貼切的表達方式,溝通效果打了折扣。

「我的『愛好』是打網球」其實還算比較好的例子。如果10句話當中,只有這句話稍有一點生硬,其實根本不是問題。但是如果10句話當中,有8句話比這個更生硬、更彆扭的話,聽的人會非常累。

而且很不巧,我遇到的這樣的人,真的是全力要把我當成練習用的沙包。他們全部只顧說自己的事,他們對我說中文的目的是為了滿足他們自己的某種欲求,不是為了溝通。他們也不太關心自己的中文表達需要改善的部分。

◆◆◆

我可以感受到那些會說完整中文句子的日本人一定很用功。他們顯然努力背過不少中文單詞。可能也有勤查字典,認真想過要怎麼用中文說出他們想表達的事情。他們的表達方法就是把他們背過、或是從字典上查到的單詞套入文法公式,拼湊成完整的句子,然後說出來。

用這種方式造句的最大的問題是:當事人就只是把單詞集或是在字典查到的第一個單詞直接代入句型公式。沒有分辨什麼樣的詞彙該用在什麼樣的場面。

這種方式很容易造出帶了很多不協調的詞彙的句子。簡單地說,就是像舊時代的劣質翻譯軟體造出來的無機質的彆扭句子。一般中文母語的人幾乎不會這麼表達。

因為用詞很不尋常,所以聽的人必須要特別花力氣去思考句子的意義。這樣的句子可以勉強達到溝通目的,但是意思的傳達效率很差。這就是我聽得很「累」的原因。

仔細想想,其實我在學生時代寫英文作文時,也是用這種方法寫作。先用中文想句子,然後用漢英字典查出我想要的英文詞彙,代入文法公式。至於我查到的英文詞彙是不是真的適合用在這樣的場面,當時的我從來沒有想過。所以當時我的英文老師看了我的作文,第一個問題就是「為什麼會選這個詞呢」?

我以前剛學日文,在會話班也是用這種方式造句。先用漢和字典查出我想要的詞彙,然後代入文法公式。日語會話班的老師聽了我的造句,常常也是一頭霧水。

這種問題的根本原因是學習語言的資源不足,以及使用字典的方法錯誤。漢英字典可以用中文詞彙查英文,漢和字典可以用中文查日文。但是能查到的只是中文詞彙「可能的解釋」,而非「可以完美代換的詞彙」。而且字典的內容也未必正確。這種方法造出來的句子,當然會非常奇怪。但是很多學習者也只能用這種方式造句。因為很多人沒有其他的方法。

我在日本遇到的那些有一定中文程度的日本人的學習方式,可能就和我以前寫英文作文,或是造日文句子的方式差不多。從我聽到他們的中文表達的感覺,就可以想像以前看到我的英文作文、或是聽到我的日文造句的老師的感覺。

我到日本生活後,不再從單詞的書上背單詞,改從現實中的句子得到單詞。當時我只是覺得這種方式比較容易記住詞彙,結果誤打誤撞走上了比較正確的語言學習方式。

至於在日本學中文的日本人就沒有那麼好的環境了。日本市面上雖然有不少中文教材。但是品質參差不齊。我自己去書店翻閱那些中文教材時,既使是初級會話,也常常看到非常生硬或是沒有禮貌的例句,甚至有一些過時或不實用的表達。這也反映出編這些教材的人的語言教養不足,而且可能沒有時常充實自己的語言知識。

◆◆◆

幾年前,我遇過一名在台灣學中文的日本人。那名日本人向我抱怨台灣的中文教材裡面有不少打錯字的地方。我聽了那名日本人的感想後,一度對台灣的中文教材不抱期待。不過之後幾年,我在日本看到各種中文教材以及一些中國官方編的中文教材後,讓我扭轉了台灣的中文教材的印象。因為台灣的中文教材的例句通順自然、措詞優雅,不會失禮。比中國編的教材好。

學台灣華語的日本人,在日本是極少數派。但是我還是有遇過這樣的人。當我遇到這樣的日本人時,我都會對他們表達感謝。

日本のひどい中国語研修資料

数年前に見た、ある観光業に関する中国語教材のことが忘れられない。その教材は、通訳案内士と関係のある団体が制作した研修資料の一つだった。ホテル、レストラン、観光案内所、非常時の対応等各種場面を盛り込んだ会話集で、日本語会話例文の下には簡体字と繁体字の例文がついていた。通訳案内士や観光業の接客現場の人向けに、実際の場面で役立てられることを期待して、わざわざこのような資料が用意されたのかもしれない。

通訳案内士と関係のある団体が発行した外国語教材なのだから、さぞかし権威があるそれなりのものだと思っていた。通訳案内士は日本で唯一の語学に関係する国家資格なのだ。しかし、私はこの中身を見て、その内容の大変なひどさに驚いてしまった。なぜなら、現実の中国語世界で使用しない表現で満ちあふれていたからである。

■ひどい理由1 日本語例文がひどい

この教材のタイトルの一部には「中国語テキスト」と書かれているので、日本人が普通このような表現を見れば中国語教材だと思うはずだし、私が初めてこのタイトルを見たときにもそう思っていた。しかし、実際にその中身を見て、そうではないことがわかった。この研修資料の中国語の例文は日本語の例文を翻訳したものにすぎず、むしろ「日本語テキスト」に中国語の翻訳がついているといった方が正確なのかもしれなかった。

つまり、この研修資料は、まず、ホテル、レストラン、店舗、観光案内所、非常時の対応等各種場面の日本語会話例文をつくってから、これらの例文を簡体字や繁体字中国語に翻訳してもらったというものだった。確かに、翻訳内容から見て、簡体字、繁体字の例文とも中国語母語話者が翻訳したものにはなっていた。しかし、その翻訳が通訳案内士の実用に足る研修資料かどうかという、翻訳以前の問題がそこには存在していた。

もっと言えば、そもそも、実際のホテル、レストラン、店舗、観光案内所等の現場で使われる表現を真剣に考えたことなどなくつくられているのかもしれなかった。研修資料の中にある日本語オリジナルの例文は日本人中心の世界観でつくられたものであって、日本語例文をつくった人は実際のニーズをわかっていたのかどうかは疑わしいものだった。

例えば、日本語例文には、旅館の従業員が接客時に使う言葉として「〇〇(地名)へようこそ」、「私どもの旅館へようこそ」、「お待ちいただきありがとうございます」というのがある。
しかし、これらは一般的にそうそう耳にしない表現である。日本のいろいろなところを旅行し、各地の旅館で大変心のこもったおもてなしを受けて感動したことはあっても、私は旅館でこのようなやりとりを聞いたことはない。
日本語例文をつくった人は、言語表現の程度を区別することなく、このような極端な表現の文も書いてしまっていた。日本語の例文がふさわしくなければ、それに合わせて翻訳された中国語文も当然どうやってもおかしくなってしまう。

ほかにも、例えば、日本語例文には、クレジットカード支払いの例文として、お客さんが「カードでお願いします」と言うと、店員は「もちろんです。カードをお預かりできますか」と答えるというものがある。
しかし、私は日本の店舗で買い物をするときに「もちろんです。カードをお預かりできますか」などという言葉を言われたことがない。ちなみに、私が以前台湾に住んでいたころもまた、台湾の店員が似たような言い回しでお客さんと話をしているのを聞いたことがないのだが。
現実には使わない日本語の例文が中国語に翻訳されるだけでなく、その表現が現地でも聞かれない、大変奇妙な中国語例文も登場するのである。

■ひどい理由2 中日翻訳がひどい

たとえ日本語例文が正確であったとしても、さらにもう一つの翻訳者の技術不足という大きな問題は、当ブログでも何度も紹介しているが、この研修資料にももちろん存在する。
一般的に、日本における翻訳資料の品質が相当ひどいことは、中国語を母語にしている人間であれば薄々でも気づくことである。この研修資料も御多分に漏れず、語学を少し学んだ学生の翻訳練習という翻訳レベルにとどまっている。
つまり、オリジナルの例文の日本語語彙を中国語の語彙に変換し、その変換した語彙を中国語の文として組み立てただけであって、日本語オリジナル例文を「同様の状況下での中国語の一般的な表現方法」に変換したわけではないのである。
その結果、中国語例文は簡体字、繁体字の例文を問わず、確かに文字や語彙が中国語であっても、表現方法には日本語の言い回しが入ってしまっている。

翻訳技術が足りないほか、翻訳者の母語知識も不十分と思われる箇所が散見される。店舗での買い物についての簡単な会話でさえ正確に翻訳できていないのである。
例えば、決済場面での日本語例文の中国語翻訳は現実とは全く違ったものになっている。中国語翻訳をした人は、台湾で買い物をした経験がないのかもしれない。
私が台湾で過ごした学生時代、書店で本を買い、ファストフードでハンバーガーやチキンを買い、コンビニで飲み物を買うときには、店員から「請問您要刷卡還是付現」(カードですか現金ですか)と聞かれていた。業種を問わず、全ての店舗でこのような方法で聞かれていた。学生時代以来、買い物で各業界業種の店員が同じ言い方をするのを聞いてきたため、これがほぼ熟語レベルの「定番表現」と言えるし、台湾人であれば誰でも言える表現である。

研修資料にある日本語部分は無視して、中国語の例文だけを眺めてみても、残念ながら、中国語翻訳者の経験値、あるいは、経験がなかったとしても、中国語翻訳者自身の言葉を知ろうとする意欲の欠如が透けて見えてしまう。
恐らく、自国のホテルに泊まったことがないし、レストランに行ったり店舗で買い物をしたりすることも少なく、サービスカウンターの人がどのようにお客さんと話すかを知らないかもしれない。母国に戻ったにしても、ホテルに泊まったり、レストランで食事をしたりする機会はなく、せいぜい飛行機に乗るぐらいだったのではないか。
航空会社の機内サービスのせりふは非常によい接客表現の例だが、翻訳者はこれらからでさえ自分の母語の接客表現を学んでいないのかもしれない。
だから、訳出した中国語例文が非常に失礼なものになっている箇所がちらほらとあり、現実の中国語圏のホテル、レストラン、店舗、観光案内所等の接客時には到底出てこない文で満ちあふれているのである。

■ひどい理由3 使い勝手への配慮がない

人の知識には限りがあり、全てを知ることはできないから、私が翻訳をするときもいつも悩んでいる。ある日本語を「同様の状況下での中国語の一般的な表現方法」にどのように変換すべきなのかはいつもわからない。ここで諦めないで更にどのような語彙選びをするかを考えて、より利用者に読みやすい表現を模索することが肝心である。
わからなくなったとき、私は台湾にあるネット掲示板の語彙表現情報に当たることにしている。あるいは、台湾の友達にメッセージやメールを送ってやりとりをする。

観光分野を例にとると、台湾に住んでいた20数年前、日本旅行に関するネット掲示板があった。そこに非常に多くの情報が蓄積されている。これらの掲示板には、台湾人が中国語でどのように日本のことを書いているか、中国語でどのように日本旅行の経験を伝えているか、中国語でどのように日本の各種観光施設や商品やサービス等を呼んでいるかがわかる。
これらの掲示板のやりとりから、日本に来る台湾観光客がどのような語彙を使って情報交換するかがわかれば、翻訳をする際、このような観光客が知っている語彙を選んで使うことができる。ただ単に日本語を中国語にするだけでなく、このような情報資源を利用することで、結果的に読み手である観光客により使いやすいものにできる。

一方で、この研修資料の中の中国語翻訳を読んでみると、観光客同士が情報交換する際によく使われる語彙があることは全く考慮されていないことがすぐにわかる。この研修資料を翻訳した人は、ほかの人とやりとりをして事実確認をしていないし、観光客同士の情報交換用の表現の有無の確認もしていないと思われる。翻訳する人がこのような作業に関心がないのならば、翻訳をした内容がたとえ文章として問題はなかったとしても、現実の観光客がなじんだ母語表現とは異なるものとなる。

■まとめ

私が通訳案内士の研修資料としての「中国語テキスト」に期待したいものは、多くのホテル、レストラン、店舗等で使われる、ある程度の接客知識がある人がまとめた日本の接客業の標準的なせりふだが、残念ながら、日本語オリジナル例文は専門知識が一つもない人が自分の想像でつくったものだった。この非現実的な日本語例文を忠実に中国語に翻訳したところで、中国語例文ももちろん問題ありとなる。
しかし、たとえ日本語例文がよかったとしても、中国語翻訳者の訳文を見ていると、母国の接客での言い回しの知識がなく、これらの言い回しに関心もない、観光客が使う実際の言い回しを調べる関心はなく翻訳してしまっていることが見えるので、中身が非常にひどいものになるのは当然と言えるかもしれない。

それにしても、納得できないのは、これらを通訳案内士の研修に関係する団体が制作したということである。このような団体の中には中国語が母語の中国語の通訳案内士がいるはずである。中国語を母語にする人材が研修資料の問題点について何らの指摘をしないのはどうしてなのかということに私は非常に驚いている。
せめて、この研修資料をうのみにして、実際の場面に使用する通訳案内士がいないことを願いたい。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

日語聽力雜感

我在日本生活了超過十年,我一直有在設法提升自己的日語能力。但是超過十年,還是有很多地方無法突破。因為日語不是我的母語。

我有日語方面的問題時,我常常會去問一名從事文字工作的日本友人。我問問題的時候,還會順便向友人確認「一般日本人大概是在什麼階段學會這個詞」。

我確認「日本人大概是在什麼階段學會這個詞」的目的是為了了解這個詞彙的難度。例如小學階段就會的詞彙是簡單的詞彙,高中以後才會的詞彙就比較難。從這些資訊可以推論日本人的生活。例如在什麼年齡階段、在什麼樣的環境下,可以接觸到這樣的詞彙。

但是這個問題不一定會得到答案。因為「什麼時候學會某個詞」,有時候並不明確。什麼樣的情況能算「學會」,也很難判斷。很多情況是日本人在日常生活中聽到了某個以前沒聽過的詞,然後自己腦補這個詞的意思,然後就開始用。這樣算不算是「學會」,真的很難說。友人有時候也很難說自己是在什麼階段會某個詞。

友人舉了一個她自己的例子。她在出社會之前,一直以為日語的「本当」(hontou)是讀作「hondou」。她從小時候就一直用這個詞,一直這麼讀,從來沒有發生問題過。但是她出了社會,從事文字工作之後,才驚覺自己以前搞錯讀音了。結果友人是出了社會後才知道「本当」真正的讀音。但是她小時候就已經在用這個詞了。

友人雖然搞錯讀音,但是友人的生活環境中沒有人覺得有問題,也沒有人覺得她說錯、讀錯。這是因為現實中大部分的日本人在說話時,沒有清淅到會讓人覺得「hontou」和「hondou」極端不同。

友人是因為工作上必須精確使用詞彙,所以才發現自己的問題。日常生活中不需要精確使用詞彙,而且很少有打字機會的人,如果小時候搞錯了某個詞的讀音,有可能一輩子也不會發現。除了讀音以外,有些人在使用某些詞彙時,可能根本沒搞清楚詞彙的意思,或是不知道這個詞彙可以用哪些漢字來書寫。這一點也不奇怪。

當初我得知友人是在工作之後才發現自己搞錯了「本当」的讀音,我稍微有點意外。因為這是初級日語的詞彙,外國人只要好好學,應該都不會搞錯。不過仔細想想,日本人學日語的方式和外國人不同。日本人是小時候直接聽周圍的大人說話,聽到什麼就模仿什麼。聲音模仿得不一定精確,也未必完全了解意思。我在學中文時也是這樣。我是上學後,才開始同時學中文詞彙的讀音、意思和書寫方法。課本沒寫的日常表達還是用模仿的。雖然我還是會去思考這些課本沒寫的詞彙該怎麼用文字正確書寫,但是還是會有搞錯音的時候。因為我的模仿對象使用詞彙的方式未必正確,音可能是隨便讀的。

友人也告訴我她學生時代的同學的故事。以前她班上有個同學喜歡把流行歌曲的歌詞寫在黑板上。有一次,有另外一個同學指出歌詞寫錯,引發了爭執。友人的同學寫錯歌詞,是因為那名同學沒有看過真正的歌詞。完全是憑聽力、記憶力和腦補寫出歌詞。

當時很多日本人是從收音機和電視聽流行歌。收音機只有聲音,電視雖然有影像,但是沒有歌詞字幕,所以一般日本民眾沒有機會從這些管道看到歌詞。因為從收音機和電視就能聽流行歌,所以很多家庭也不會特別去買唱片、錄音帶等。喜歡流行歌曲的人就只能憑聽力和想像力腦補出歌詞。這種腦補出來的歌詞當然不精確。很多日本人是去唱卡拉OK後,才從卡拉OK的畫面得知「原來歌詞是這樣寫的啊」。

現在電腦資訊發達,網路上很容易就能找到流行歌曲的歌詞,所以腦補歌詞的時代結束了。但是從友人舉的例子可以知道日本人在聽自己的語言時,也未必聽得精確。

我現在看日本的新聞報導時,聽到的內容幾乎是直接完全吸收。我在生活和工作上和日本人溝通對話基本上也沒有問題,但是偶爾還是會遇到無法聽清楚的日語。我工作時會接觸到各種日本人,如果我沒有聽清楚對方的說話內容,我還是會緊張。

我聽不清楚的原因,大多是對方說話沒頭沒尾,或是對方咬字不清,也可能是對方用了我不知道或是不熟悉的詞彙。日本人遇到類似的狀況時,大概也很難聽得清楚。

我會緊張,是因為這是溝通的危機。日語不是我的母語,我必須要用非母語和一名說話沒頭沒尾、口齒不清,或是不太會拿捏用詞的人溝通,這並不容易。另一方面,我知道自己的日語還有無法克服的弱點,所以遇到聽力挫折時,就算問題是在對方,還是會影響到我自己的自信。

翻訳を通じてわかる母語表現問題

私は今まで、自然な中国語で書かれた翻訳作品に出会ったことがない。このことは「読みにくい中国語翻訳の世界」でも触れた。台湾で、小さいころから大人になるまで、それはたくさんの翻訳作品を読んできた。これらの翻訳作品に共通した特徴は、全てが中国語の語彙であるのに、大部分の文の表現が日常的な中国語ではあり得ないものだったことである。
もしかしたら自然な中国語で書かれた翻訳作品はあるのかもしれない。しかし、私が読んだことのある翻訳小説、雑誌、学術書等にそのような作品はなく、尋常ではない確率でこの不自然さに遭遇していた。

翻訳をした人は中国語母語話者だが、翻訳で使われる中国語は、普通の中国語母語話者が日常で表現する方法とは全く違っている。その根本的な原因は、中国語の翻訳者の母語表現能力が足りないから、自分の母語で「作者が原文で表現したいこと」を適切に再現する能力がないということだと思う。恐らく翻訳者自身は自分の母語表現に問題があること自体をわかっていないのではないだろうか。ちなみに、このような現象は相当ありふれて存在している。

■母語表現能力に無自覚なことは日本で気づいた

中国語母語話者の母語表現能力が足りないことは全然おかしくないことである。母語表現に精通すること自体が本当に容易ではないからである。
普通の人が自分の母語で簡単な意思会話をする分には全く問題はない。しかし、ロジックがあって体系的で複雑な表現をするときに実は問題がある。私が台湾の大学に行っていたころは、今から考えると、私には自分の母語でロジックがあって体系的な表現をする能力はまだなかった。今の自分の母語能力から当時を振り返って、やっとそのような結論が得られている。当時の私には、「母語表現能力が足りない」という自覚は全くなかった。

私が台湾で大学まで勉強し、それでも自分の母語でロジックがあって体系的な表現ができていなかったのは、私個人の問題というわけではない。当時の私の大学の同級生たちの表現能力もさほどかわりはなかった。みんなの表現能力がさほどかわりはなかったので、みんな自分の表現能力に問題があるとは思えなかっただけである。
私が大学で出会った多くの先生の表現能力もよくなかった。当時は母語が日本語か台湾語の先生も何人かいて、母語が中国語ではないから中国語の表現能力がよくないというのは仕方ないこととしてあった。しかし、母語が中国語の先生であっても、中国語の表現能力がいいとは限らなかった。つまり、母語表現能力がよくないことは若者の問題というわけではなかったし、大学で教える知識エリート層の母語表現能力がいいとは限らなかった。

皆の言語表現能力がよくなかった根本原因は、表現能力がよい人に出会う機会が少なく、参考にできるよい手本もなかったことにある。
私の学生時代に出会った中国語表現能力が比較的よい人は、中学校、高校時代の塾講師であった。私が出会った塾講師はたくさんいて、彼らの表現能力が皆よいというわけではなかったが、全体的に塾講師の表現能力の方が学校の先生よりも高かった。ただし、学生の大部分は「教え方がよいかどうか」で相手を評価するはずで、そのとき「言語表現能力」から問題を捉えて、表現能力の手本にするということがあるわけではなかった。
塾講師ぐらいしか該当者が見当たらないというのは、私個人の独特の経歴というより、大部分の台湾人は、日常生活の中で「中国語の表現能力がよい人」に出会う機会はそう多くないということである。よい見本に出会う機会が多くないからこそ、台湾の大学に行っても、私や私の同級生の言語表現能力に差はなかったのである。

中国語の母語話者の母語表現能力が足りない原因の一つは、中国語母語話者が教育を受ける段階で適切な母語表現訓練を受けていないことにある。
私も小中高のときには学校でかなり多くの中国語の語彙を学んだが、語彙をどのように組み合わせて自然な文や文章にするのかを教わったことはなかった。作文教育はあったが、作文教育の多くは、学生に説教めいた人生論や文学っぽい流麗な文章を教えることであって、学生がどのように自然で普通の、正確で読みやすい表現をするのかを教えるのではなかった。

この種の言語表現問題は、私が日本で生活するようになって、どのように日本語を使って日本人と意思疎通を図るかを真剣に考えたり、日本のメディアで「外国人でさえ理解できる日本語表現」が使われているのを見たりして、再度自分の母語表現について振り返って考えるようになり、やっと気づいた事実である。もし、私が日本で生活をしていなければ、自分の母語表現問題をこんなにも深く考えることは一生なかったかもしれない。

■不自然なものをよしとした言語教育の問題

一方で、翻訳についても、言語教育の中でいつしか言語表現の不自然さがむしろ正確なのだと捉えるようになってしまっていた。
私が中学校になると、中国語の古文の学習が始まった。台湾の国語の市販参考書には、教科書に出てくる古文の模範翻訳文がついていた。これらの翻訳は自然な現代中国語で古文の内容を再現していたわけではなく、古文の全ての語彙の解釈の寄せ集めが翻訳文になっていた。学生に古文の表現ロジックを知らせることが狙いであるためである。学校の試験には、古文を現代文に翻訳する問題があったが、それで教師が期待する答案は、参考書と同じで、古文の全ての語彙を解釈できているかどうかだった。このような古文の語彙解釈を無理やり寄せ集めた翻訳文は一つも自然なものがないのは当然なのだが、国語教師は学生に、この種の翻訳文が不自然だとは決して言わなかった。その結果、学生はこれこそ真の翻訳であり、これこそ自然の表現方式だと考えるのである。

そして、中学校になると、英語の学習も始まった。台湾の英語の市販参考書にも、教科書に出てくる英語の翻訳文がついていた。これらの翻訳は教科書の英語のもともとの意味を自然な中国語で再現したのではなく、全ての語彙を中国語に置きかえた後、寄せ集めて文にしたというものであった。学生に英語の表現ロジックを知らせることが狙いであるためである。そして、英語教師は学生に、この種の中国語の翻訳が不自然だとは言わなかった。その結果、学生は、語彙が完全に対応関係を持つ「直訳」こそが正確な翻訳であると考えるのである。

台湾の教師が学生に、古文や英語の模範翻訳文が不自然と言わなかったのは、教師自身が言語表現の本質を考えていなかったからかもしれない。彼らも、彼ら以前の教師や市販の参考書によって学習したにすぎないのだ。その結果、台湾の学生が中高段階で多くの国語や英語の語彙を学んでも、自分の言語の自然な表現方式を学んだということにはならなかったのである。実際に、学校の教師や参考書が提供する古文や英語の模範翻訳文は非常に読みにくいものであった。しかし、学生はこれが自然で正確な母語表現方法だと思い違いをするようになるのである。

■不自然な翻訳文をそのまま大学に持ち込む

私や私の同級生が中高段階で受けたゆがんだ言語表現方法の訓練の弊害は、大学になってからあらわれてきた。
私の大学の専攻で使っていた教科書の大部分はアメリカから輸入した最新のアメリカの大学の教科書、つまり英語だったのだが、課題のレポートを書くときには中国語を使ってもよかった。レポートを書く際には教科書を参考にするため、みんなが書いたレポートには「直訳」テイストの不自然な中国語で満ちあふれることになった。このような現象は、私や私の同級生の間で発生しただけではない。私の先輩が書いたレポート、私の指導教員が書いた中国語の論文でさえ全てこの種の問題があった。

皆がレポートや論文を書く際に使う中国語は非常に不自然で、しかも読みにくいのだが、日常生活でおしゃべりするときには中国語は正常に戻る。つまり、ゆがんだ言語表現方法は最も根本にある母語表現を揺るがすものではなかった。しかし、みんながみんな、ふだん自分の母語表現に問題があると考えているはずもないから、こういう表現のギャップがあったことを全く感じていなかったのは奇妙なことであった。

私は日本に留学して、言語の構造がわかり始めてから、ようやく以前の、台湾での自分の言語表現に大きな問題があったことに気づいた。その後、記事や翻訳をするときにかなり気をつけるようにすることで、やっと以前台湾の学生時代に培った不自然な母語の文章の表現方法が矯正できてきた。

■母語話者の母語表現能力が足りないのは割と普通のこと

中国語母語話者が適切な表現ができないことは、台湾特有の問題というわけではない。香港人や中国人の翻訳作品を読んでいても、類似の不自然な中国語表現問題に突き当たる。台湾に比べて状況がよいわけでもない。香港や中国の言語教育にも台湾と類似の問題があるのかもしれない。
特に中国は、このことに加えて、文化大革命を経て、本来の中国語の自然な表現方法が失われ、多くの言い回しの方法が原始的で粗野なものに戻ったか、官製のぎこちない語彙に改まった。だから、中国語の表現の流暢性や優雅さは、台湾や香港に比べてひどく劣っているという問題もある。
この視点で見ると、日本では、表現が不自然で上品ではないような異常な中国語が多数採用された情報表示ばかりを目にするようになっているということであるが、ここまで正直には誰も言えないので、日本人が思っている以上に価値が低いものはそのまま放置されている。
さらに、母語話者が適切に自分の母語を使って翻訳ができているわけではないことは、何も中国語圏のみのことではなく、日本でもそうである。私が留学生だったころにも、翻訳がひどい日本語の学術書を幾つか読んだことがあった。翻訳した日本人は明らかに自分の母語で、作者が原文で表現したい意思を再現することをしていなかった。これらは私が台湾で体験してきたことと類似のことだと思う。

■翻訳で遭遇する原文をつくる人の母語問題

そして、私が現在遭遇しているのは、日本語を母語とする日本人の日本語表現問題である。翻訳するべきものとして渡される日本語原稿(主に観光情報)の内容が大分ひどい。書き手が原稿の使用目的や読者のニーズを考えず、読みやすく書いていない。はっきりしないのでどうとでも解釈できてしまう。日本人自身ももちろん、日常生活でおしゃべりする分には問題がないのかもしれないが、それを超えて、自分たちの母語でロジックがあって体系的な表現をする能力は足りないということかもしれない。
これらは大半が自治体職員や民間企業の社員が書いたものであり、このような身分であっても適切に自分の母語を使っているとは限らない。私がこれまで遭遇した多くの日本語原稿から、日本の自治体職員や企業の社員の中には、かなりの割合で適切に自分の母語を使えない人がいると思う。あるいは、文章を書くことが得意ではないにもかかわらず、文章を書く部署に配属されて書かざるを得なくなっている、つまり、日本の自治体や企業では、専門知識を持つ人を適材適所で人材活用をしていない結果なのかもしれない。
いずれにせよ、これらのかなりひどい日本語原稿を受け取って翻訳するということは、少なくともこれらの原稿は組織内部のチェックを通過したということであり、チェックする人自身も日本語原稿の内容の問題を見分けることができていないのかもしれない。

現在日本政府は観光立国を推進し、中国語の情報が世の中にあふれているように目に映るが、ネーティブから見て少しも価値が高いものができ上がってこない。その原因の一つに、文章をつくり翻訳する人たちの母語表現能力の問題がある。これは中国語翻訳者の母語表現能力の問題だけでなく、実は日本語原稿の段階で問題があることが翻訳結果に大きな影響を与えていることも間違いなくある。質の悪い日本語原稿で質の悪い翻訳がされてしまえば、その結果の品質が相当ひどいものになることは容易に想像できるだろう。そろそろ品質の悪い翻訳は排除し、より母語表現能力のために努力した人が担う、より品質の高い翻訳資料がふえていくことを願ってやまない。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

読みにくい中国語翻訳の世界

私が留学した日本の大学には留学生向けの日本語の授業があり、「翻訳」がテーマだったことがあった。この「翻訳」とは、翻訳のやり方を学ぶのではなく、「翻訳のやり方を語る」文章を読むということである。
翻訳には「原文尊重主義」と「訳文尊重主義」という概念があり、オリジナルが表現する要素と翻訳文の流暢性の間でいかにバランスをとるかを考えさせるというものだった。

教師はクラスの学生に、あなたの国の翻訳は、オリジナル表現を重視する構造か、それとも翻訳文を重視する構造かと質問を投げかけた。
それに対して、ある中国から来た留学生は、中国の翻訳はオリジナル表現を重視して、かつ、時間をかけて流暢な中国語に修正していると答えた。
教師はそれを聞いてすごく驚いていた。このような翻訳方法は理想的だからである。
そして私も、これには大変驚いた。私は中国語の翻訳をたくさん見てきたが、その実情は、この中国から来た留学生が話したものとは明らかに異なるからである。だから、その中国から来た留学生は、本人が思う翻訳の理想状態を現実のものと勘違いして答えているのかもしれないと思った。

■活字の翻訳書が読みにくいのは大人ならわかる表現で書かれているから?

私は小さいころから台湾で翻訳書をたくさん読んできた。私が生まれて初めて見た漫画「ドラえもん」も翻訳書である。当時の私はまだ小学校に上がっておらず、「ドラえもん」が翻訳書であることも知らなかった。
私の母は、私が漫画を読むことを喜ばなかった。私が小学校に上がった後は、母は一貫して私に「純粋な」活字の本を読ませた。母から紹介される本はどれも翻訳書であり、それはとても読みたくないものだった。
最初は字が読めなかったこともあり、活字の本を読むのが好きではなかった。しかし、ある程度字を読めるようになった後でも、私はやっぱり活字を読むのが好きではなかった。それは、これらの本がとても読みにくいと感じたからである。

私が活字の本を読むのが嫌いであっても、やはり「読まざるを得ない」ときはあった。私の家では、週末になると祖母の家に行って食事をする。祖母の家には児童の娯楽になるものは何もないし、家にいる大人は皆子供に関心がないから、本を読んで現実逃避するしかないのだ。当時、祖母の家で定期購読していた中国語版の「リーダーズダイジェスト」を格好の現実逃避の道具にしていた。
しかし、その「リーダーズダイジェスト」はとても読みにくい雑誌だった。文章表現はどれもとても奇妙で、私がふだん見聞きする中国語の表現方式と全く違っていた。当時の私は、大人が文章を書くときにはこういう奇妙なルールがあり、だから、書かれている文章はこんなにも不自然なんだと思っていた。

活字の本のテーマが魅力的であれば、やはり読みたいものはあった。台湾で「ET」や「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」が上映されたとき、私は映画館に行くことはなかったが、父親がこの映画の翻訳小説を何とか手に入れてくれていた。
小学生の私がこの2冊の小説を読み終えるのは簡単ではなかったし、読み終えたものの、内容を理解していなかった。小説の中の文の書き方が奇妙であるのに、身近な大人は私に、なぜこれらの文章がこんなに奇妙かという話をしなかった。だから、私は私なりに、大人が小説を書くときには奇妙な表現様式をとらないといけないのだと解釈していた。

中学、高校に進学した後も、折に触れて翻訳された外国の小説を読むことはあった。そのとき読んだものは「シャーロック・ホームズの冒険」や「怪盗紳士ルパン」などの翻訳書である。この段階では、私の文章理解力も以前よりもよくなっていたから、翻訳書の内容は理解できた。しかし、やはり読みにくさを感じていた。
当時の私は、このような読みにくい文章は「特殊な文学表現技術」があるのだと思っていた。そして、私自身に文章を読む経験が足りない、このような文学表現構造に適応できていないから、読みにくいと感じるのだろうと思っていた。

■大学生になっても読めない翻訳書に自分の知識不足を疑う

私が行った台湾の大学では、アメリカの最新の大学の教科書をそのまま教科書として使っていた。高校の英語の成績がよくなかった私にしてみれば、これはとても大きな負担だった。だから、書店で共通のテーマの中国語版の大学の教科書を探して何とかするしかなかったのだが、私が見つける中国語版の大学の教科書はどれも読みにくかった。
当時の私は、自分の知識が足りないから、大学の教科書は読みにくいのだと思っていた。これら中国語版の大学の教科書は、全て翻訳書だった。私の大学生活の前半において中国語版の大学の教科書をたくさん見つけたが、どの翻訳の教科書も大変読みにくかった。例外はなかった。

台湾の大学で最終学年になったころ、書店で私の専攻に関連する中国語に翻訳された教科書を見つけ、とても喜んで買ったものだった。しかし、読みにくいので、読もうにも読み進められない。この本は中国の幾つかの大学が協力して翻訳した専門書であり、台湾の出版社が繁体字版をつくり台湾で販売したものだった。私がそのときわかったことは、中国人が翻訳した本もこんなにも読みにくいということだった。

こうして大学を卒業して数年後、日本に留学した。日本の大学に入る前には、台湾の書店で私の専攻に関連する分野の学術書(翻訳書)を見つけ、参考にするために日本に持ってきていた。これらの本の中には、台湾人が翻訳したものも、中国人が翻訳したものを出版社が台湾の繁体字版にしたものもあった。そして、私はこれらの翻訳書を読むのに何度も挫折していた。これらの本がとても読みにくいからである。当時の私は、それでもやはり、自分の知識が足りないから読みにくいのだと思っていた。

読みにくいのは学術書だけではなかった。大学時代のあるとき、SF好きの友人が、「攻殻機動隊」という翻訳漫画を勧めてきた。私は漫画を読むのが好きだが、最初の2ページで読んでいられなくなった。内容が本当にわからないからだ。時間をかけて最初2ページの内容を分析してみたが、どうやって読んでも意味を理解できなかった。当時の私は、「攻殻機動隊」で語られる知識は深過ぎるので、内容が理解できないのだと思っていた。

■翻訳書が読みにくい根本原因がわかった

私が日本の学校で勉強して半ばが過ぎたころ、違う言語での表現構造の違いを理解し始め、ようやく、私が以前読んだ中国語の翻訳書がなぜこんなにも読みにくいのかということがわかった。

根本原因は、翻訳者の母語表現能力が弱く、翻訳文を正常な文にしていなかったことにある。これらの翻訳者は、実はオリジナルの意味を確実には理解していないし、オリジナルの作者が伝えたい内容を自分の母語でどのように再現するかも真剣に考えてはいなかったのだ。

これまで読んできた翻訳書の翻訳者は、ただ辞書に書かれた解釈をもとにして、オリジナルの語彙を中国語に改め、その後、何とかしてこれらの語彙を一言一句漏らさないようにして文を組み立てたというだけだったのだ。だから、例えば、もしオリジナルの文で形容詞を3つ使われていたら、翻訳された中国語の文にも必ず形容詞が3つ入ることになる。
翻訳者は辞書の解釈をもとにして語彙を変えただけであって、言語表現の違いを全く考慮していないので、翻訳された文は本質的には「辞書中の一般的な解釈」の集合体にすぎないものとなる。結局、翻訳文の中での語彙は中国語だが、これらの語彙で構成する文は非常に不自然であり、文の表現する順序も非常に不自然になる。だから、読みにくいのである。
そもそも、中国語を母語にする人が話をするとき、翻訳文で使っているような表現をすることはあり得ない。しかし、私が以前読んでいた「リーダーズダイジェスト」雑誌の翻訳文、各種翻訳小説、翻訳された大学の教科書等、翻訳書の全てがこうだった。
つまり、これが中国語の翻訳の真実なのである。

これまでは、私の言語知識が足りないから、小説や学術書には特別の表現ルールがあると思っていたから、読むのが難しいと思っていた。しかし、英語や日本語の表現構造がわかった後、私はこのような奇妙の翻訳文を見て、オリジナルの文章を想像できるようになっていた。これらの翻訳文はオリジナルの表現構造を本当にほとんど保持しているからだ。
私は日本で日本語版の「攻殻機動隊」の漫画を読み、最初の2ページの内容に何らの難しいことがないことがやっとわかった。以前、台湾で翻訳版がわからなかった原因は、以前の台湾の翻訳がひど過ぎただけだった。

■外国語が得意ではなく、修行のための翻訳

翻訳はある言語の情報を別の言語に変換することである。情報が発達していない時代においては、外国語の知識がない人は翻訳書を読むことで外国の知識を得ていた。過去の人たちからすれば、外国語を翻訳する人は知識エリートだから、翻訳文がどれほど奇妙でも、翻訳内容を疑う人はいなかった。
翻訳に従事する人は,確かに普通の人より外国語の知識を持っていて、外国語の勉強に情熱を持っているかもしれないが、それは外国語に精通しているとは限らない。
現実には、中国語の翻訳書の多くは、本物の翻訳家による翻訳ではなく、アルバイトの学生による翻訳である。外国語が得意だから翻訳するというわけではなく、「翻訳という修行」によって中途半端な外国語能力を向上させたくて、過去同じようなバイトをした先輩から翻訳のバイトのチャンスを紹介されたというのが実態である。翻訳ができる人は知識エリートだというのはただの幻想にすぎない。

私が以前読んだ中国語版の大学の教科書も、実はほとんどがアルバイトの学生の翻訳の「習作」だった。学生は母語も外国語能力も未熟で、専門的知識も足りないし、その結果、翻訳の品質も非常にひどいものになる。しかも、わからない部分があっても事実確認もしないので、適当に仕上げて納品してしまう。
雑誌や小説では、比較的専門性のある翻訳者が翻訳するかもしれないが、私が読んだことがある翻訳小説の翻訳の質はどれもひどく、明らかに母語の表現技術がよくなかった。
もっと言えば、中国語の翻訳は台湾、香港、中国に共通する問題なので、以前の香港で翻訳されていた「リーダーズダイジェスト」の文章も、品質は非常にひどいのである。

■翻訳者の母語能力が低過ぎるのは変わらず

情報が発達した現在においても粗悪な中国語翻訳は依然として存在するし、しかも多数を占める。これらの粗悪な翻訳の特徴は、私が小さいころに読んだ翻訳書と同じで、語彙の全てが中国語の語彙だけれども、表現方式が完全に中国語の表現方式ではない。つまり、粗悪な中国語翻訳はやはり数十年前と共通する誤りをし続けていて、全く変わっていない。

最も典型的な例は中国語版のウィキペディアである。中国語版のウィキペディアの多くは他の言語版から翻訳したもので、実質的に翻訳の練習プラットフォームになっている。ウィキペディアの翻訳をする人は、台湾人は少数で、大多数は中国以外に住む中国人である。ただし、台湾人の翻訳であろうと、中国人の翻訳であろうと、翻訳ミスの傾向はほぼ全部同じである。翻訳者の母語能力の弱さと、そのことに全く自覚がないということが根本原因であることも何ら変わらない。

母語の表現能力は何もやらずに自然によくなるはずはないので、時間や努力をつぎ込まなければならない。そして、どんな場合にどんな語彙を使うか、適切な表現をどのようにするかを考え続けることで進歩する。もし自身の母語に関心がなければ、母語で書く翻訳文の品質が当然よいはずがない。
今、日本で中国語の翻訳を見ていても、多くの翻訳文は母語の表現能力がこなれていないという問題があり、しかも、誰が読むものかを考えずに翻訳者が翻訳しているという問題もある。

■読み手に届く言語表現への関心が低過ぎる

私が台湾繁体字と中国簡体字版の翻訳の仕事を同時に持っているときは、台湾と中国の言い回しや表現の違いに留意して翻訳するし、繁体字版の翻訳では、台湾人がなれている語彙や表現方式を使い、簡体字版の翻訳では、中国人がなれている語彙や表現方式を使う。
台湾人は通常、台湾と中国で使用している語彙や表現方式の違いが大きいことを知っている。台湾人が中国人と会話するとき、基本的には言い回しや表現の違いの問題を留意している。しかし、私が日本で会ったことがある中国人は、台湾と中国との文字の違いは知っていても、語彙や表現上の違いに関心がないし、台湾人が会話するときに留意すべき表現に関心はない。台湾人がなぜこの語彙を使い、このような表現をしているのかという発想はないのではないか。

以前、自治体から台湾人向けの繁体字版文書の翻訳案件を受けたとき、翻訳原稿をチェックする中国人の臨時職員は、私が台湾人向けに翻訳した言い回し表現を、中国人だけが使う表現へと勝手に改め、私が使っている正確で誤りのない繁体字を中国の簡体字に改めることさえしていた。
このことは驚くべきことだが、珍しいことではない。この臨時職員に限らず、正確な言語知識がなく、事実確認もしていないことは明らかで、言語や翻訳に対して余りに無関心という例は多い。このような人に翻訳のチェックをさせて完成する自治体資料の品質はよいはずがないのだが、この現実を伝えることが困難であることは、「中華圏の多様性を破壊する日本の自治体職員の無知――その中国語母語職員は繁体字情報を破壊していませんか」でも言及した。

私が日本の大学を卒業して既に十年以上たった。
翻訳文の読みにくさの原因については私なりに理解できるようになったものの、読みにくい翻訳文をつくる翻訳者自身の問題は以前と変わらないし、読みにくい翻訳はこれまで以上に生産され続けている。
あのとき、あの日本語の授業で、あの中国から来た留学生が言っていた、中国の「オリジナル表現を重視して、しかも時間をかけて流暢な中国語に修正している」という状況は、現在でも、現実にはなっていない幻想でしかすぎないのではないかと私は思っている。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

見立てができない翻訳の質のわな

――ある日本語教師との思い出から

私は来日してすぐ、日本語学校で1年半日本語を勉強した。この1年半の間、私の記憶がたしかならば、少なくとも8人の日本語教師に出会った。

■日本語教師は必ずしも外国語力は必要ではないが

日本語学校の日本語教師の仕事は外国人に日本語を教えることである。だから、日本語教師はさまざまの国から来た留学生と出会うことになる。
外国人に日本語を教えるには外国人と意思疎通を図る必要があるから、日本語教師をするには外国語が必要だと思う人もいるかもしれない。実は、日本語の教授法はたくさんあり、教授法の中には、外国語を一切使うことなく、全く日本語がわからない外国人に日本語をマスターさせることができるものもある。だから、日本語教師は外国語に精通しているとは限らない。
しかし、日本語教師に外国語の知識があれば、教える際にとれる手段は多くなる。私がいた学校には、日本語表現を説明する際、簡単な英語の例文を出して言語の違いを説明する教師もいた。だから、当時の私が持っていた日本語教師のイメージは、若干の外国語や言語理論方面の知識を持つ職業だということだった。

■ある日本語教師が配付したアンケート

私が出会った日本語教師の中には、日本のある有名大学院の博士課程で言語教育を専門に勉強中の人がいた。

日本で生活を始めて半年もたっていないあるとき、その教師は授業中にアンケートを配付し、それを家で書いて、次回の授業のときに提出するように呼びかけた。アンケートは、外国人が日本語を勉強する際のさまざまな状況を調べるもので、この教師の博士課程の研究テーマと関係することなのかもしれなかった。

当時の私のクラスの学生は20人、内訳は、中国人11人、台湾人6人、香港人1人、ベトナム人1人、インドネシア人1人だった。中国語が母語の学生は20人中18人もいたので、その教師はさらに中国語に翻訳したバージョンを特別に用意していた。
私はこの2カ国語のアンケート内容に興味を持ち、日本語版と中国語版のアンケートを1部ずつ受け取った。クラスでは、私と同じように、2カ国語のアンケートを受け取る同級生もいた。

中国語版のアンケートとは、当然のことながら簡体字中国語版ということである。
私は来日当初から、日本人は漢字圏に対する文化知識が極度に貧困で、台湾と中国の文字が違うことを知らない人すら少なくないことに何となく気づいていた。そして、日本語学校の教師さえもその例外ではなかったことを再び思い知らされていた。
日本人が自国以外の漢字に関心を持っていない、自国の周辺のことにも関心を持っていないことは、日本に来た後に大分驚いたことである。
日本語学校の教師の中には、台湾と中国の文字が違うことを知っている教師もいたにはいたが、もろもろの様子を見てみると、言語教育の博士課程のこの教師はそういう文化知識を持っていないようであった。だから、台湾の留学生が簡体字版のアンケートを見てどう感じるかなど何とも思っていなかったのだろうと思う。

■留学生&日本語教師に存在した課題点

この日、授業が終わり、寮に帰ってから、まず簡体字翻訳版のアンケートを見てみたのだが、設問の多くが余りに曖昧過ぎて、具体的に何を聞きたいか何を確認したいか、幾ら読んでもわからなかった。
一方、日本語版のアンケートでは設問は非常に明瞭で、曖昧な部分は一切なかった。だから、私は日本語版のアンケートに回答することにした。
そして、翌日の授業でアンケートを提出するとき、私はこの教師に、翻訳版に大きな問題があると伝えた。アンケートの回答者が翻訳版を見て回答した場合、調査者は正確な結果を得られないかもしれないと。別の中国人のクラスメートもこのことを指摘していた。教師は、中国語版のアンケートは大学で見つけた留学生が翻訳したものだと答えた。

このようなことから、私は幾つかのことがわかったのだった。
1.日本語教師は、大学にいる留学生にアンケートの翻訳能力があると思っていた。
2.日本の有名大学で学ぶ留学生であっても、彼らが持っている言語知識で翻訳を担えるとは限らない。
3.このアンケートを翻訳した留学生は、アンケートデザインに関する知識を一切持ち合わせていないのかもしれない。

アンケートをデザインする際には、設問内容を明瞭にさせなければ調査精度が上がらない。回答者が設問内容を理解できないようなアンケートなら、そのアンケートは失敗だろう。
日本語教師が準備した日本語で書かれたオリジナルのアンケート内容は非常に明瞭で、当時の私でも完全に理解できるものだった。しかし、中国語版のアンケート内容は大分ひどく、日本語オリジナルが伝えたい意図が全く伝わらなくなっていた。
このアンケートを翻訳した留学生はオリジナルの内容を確実に理解していないから、自分が中国語に翻訳したものが日本語のオリジナルが伝えたい事柄を忠実に再現したかどうかがわからないということかもしれない。

日本語版のアンケートの設問内容は非常に明瞭であり、博士課程のこの日本語教師は明らかにアンケートのデザインに関するリテラシーや知識を持っていた。しかし、日本語教師として持っている言語理論知識やリテラシーなどは、適切な翻訳者を見つけさせるものではなかった。
この日本語教師は、自分の大学にいる留学生の言語能力を明らかに過大評価しており、しかも、留学生が翻訳する際に留意すべき事項を伝えていなかったから、中国語版のアンケートの品質は大変ひどくなってしまった。さらに、ひどいことに、大学にすら行けていない日本語学校の生徒がこの問題点に気づいたのだった。

■オリジナルを再現する力量がない翻訳

留学生に日本語と自国の母語の知識があったとしても、その留学生がこの2カ国語を使いこなせることを意味しないし、有名大学の留学生もその例外ではない、このことはちっともおかしくないことである。
言語の理解や表現力はある程度の時間をかけないとなじんでこない。10代やハタチそこそこの留学生の、母語の能力がまだ完全ではない時期に日本に来て日本語を勉強することになれば、母語と日本語のいずれもそれほどうまくない人もいる。母語と日本語のいずれもうまくできていないのなら、もちろん高度に厳密な翻訳をすることはできない。

翻訳は専門的な技術で、ある言語に包含する意図を別の言語を置きかえなければならない。オリジナルの文章の趣旨を理解する能力や、もう一つの言語でオリジナルの趣旨を再現する能力などが翻訳に求められる技能である。

学生が翻訳をする際にありがちな過ちは、辞書上の解釈をもとにオリジナルの語彙を別の言語の語彙に置きかえ、その文を寄せ集めて構成してしまうことである。そして、翻訳を文レベルだけで完結させてしまい、文章レベルの文脈を全く顧みることがないから、文章のバランスや文脈の再現にまで視野が届かないということもある。

辞書の解釈そのままを訳語として使う大きな問題は、辞書の解釈はあくまで解釈であり一般論的なものということである。一方で、現実の文章は、言葉の使い方や選び方がよく考えられている。文章の全体配置を考慮しないで一般論を寄せ集めてしまうと、オリジナルの作者がなぜこの言葉を使ったのか、このように書いたのかを考えていないので、もちろんオリジナルの作者の意図を全く正確に反映しないことになる。

前段のアンケートの翻訳の事例では、この留学生はアンケートの趣旨を理解していなければならず、アンケートをデザインした人がどのような文章でアンケートの内容を明瞭化させているか、回答者に誤解を生じさせないようにしているかを理解していなければならない。まずこのような前提を理解しなければ、オリジナルの文章を別の言語に翻訳することなどできない。さらに、翻訳する別の言語でそのオリジナルの趣旨を再現し、オリジナルの明確性を再現し、オリジナルがその文中に潜ませている誤読を防止するデザインを再現しなければならない。

しかし、この留学生はオリジナルのアンケートをちゃんと読めてはいたが、文字の意味がわかったにすぎず、オリジナル文章の趣旨がわからないし、アンケートをデザインする人がなぜこのように書いたのかがわからなかった。自分の文章をチェックする能力を持っていないし、自己が翻訳した文章はオリジナルが伝えたかった事柄と合致しているかどうかを判別できなかった。だから、翻訳版のアンケートはオリジナルの趣旨を再現されることはなかったのである。

■翻訳させるに適当な相手ではない場合もある

私は、自分が翻訳したものに不用意に横やりを入れられたことが何回もある。
日本人から翻訳を頼まれるのだが、翻訳提出後、日本人は私の翻訳を翻訳の知識がないネーティブに見せているようで、その結果、私の翻訳文がめちゃくちゃに添削されてしまうのだ。翻訳の知識がないネーティブの典型例というのは、中国語を母語にする留学生や、中国語を母語にする自治体の臨時職員などだ。(「中華圏の多様性を破壊する日本の自治体職員の無知――その中国語母語職員は繁体字情報を破壊していませんか」参照)
翻訳文がめちゃくちゃにされると、日本人は動揺し、私の翻訳を疑い始める。こういう感覚は、最悪だ。

翻訳に関心を持たない日本人から私の翻訳を疑う質問をされたり、私の翻訳が彼らの知り合いのネーティブがつくった翻訳との違いが大きいことを指摘されるとき、私は本当にどのようにしてはっきりと経緯を説明すればいいのかわからないことも多い。
ここでの最大の問題は、日本人は頼んだ相手の専門性を見なくなることである。まさか、自分にとって親しい人間がつくった翻訳の方がオリジナルの文をよく再現しているとは思ってはいないだろうが。

とはいえ、振り返れば、私の日本語学校時代、有名大学の博士課程で言語教育を専門にしていたあの日本語教師ですら、翻訳には多くの言語の理解と表現を再現する知識が関係していることがわかっていなかったし、そこら辺の留学生にアンケートの翻訳をさせてしまうとひどいことになることがわからなかったのだ。

日本人は適当な外国人では翻訳は満足にできないことになかなか気づかないし、日本語を使える外国人は翻訳ができるという思い込みがあって、明らかに相手を過大評価している。
一方で、翻訳が正確になされても、セカンドオピニオンのネーティブの人選によりめちゃくちゃにもされる。リアルのネーティブの意見より、グーグルなどの翻訳ツールやウィキペディアなどの情報を過大評価する日本人もいる。
結果的には、単に翻訳を提出するだけではなく、翻訳事情や言語事情に興味がない日本人、日本語以外わからない日本人を相手に、母語の文章の正確さを彼らにわかるように日本語で説得しなければいけない手間が加わる。しかも、相手にはその言葉は言い訳や弁解にしか響いていない可能性さえある。

今はこんな低レベルでむなしい話で悪戦苦闘をしているので、もっと大きくて深刻な話ができないでいる。それは、日本の繁体字事情である。日本では、中華人民共和国以外の漢字の露出が結果的に抹殺されていることは以前紹介したとおりである。
これが私が見る翻訳の世界の現実である。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

中華圏の多様性を破壊する日本の自治体職員の無知

――その中国語母語職員は繁体字情報を破壊していませんか

多文化共生の時代、日本の公共施設の多くが外国人サービスのために外国語情報を増やしている。地方自治体が外国語母語職員を採用し外国籍住民向けサービスを行うことは少なくない。

自治体が外国語母語職員を採用するのは、外国籍住民の中には日本語がわからない人がいるし、自治体職員の中にも外国語がわからない人が多数いるからだ。東京23区では、外国人が人口全体の1割を超える区も珍しくなくなっている。双方向コミュニケーションがスムーズにできなければ自治体の住民サービスの質に影響しかねないことから、外国語母語職員は自治体と外国籍住民の意思疎通のパイプ役を担う。

■仲介はできても母語力があるわけではない

パイプ役といっても、外国語母語職員の語学スキルを過大評価してはいけない。通常の外国語母語職員ができるのは、相互の意思疎通を助けるのみである。
にもかかわらず、一部自治体では、外国語母語職員の知識能力を超えること、しかも日本人職員が内容をチェック、監督できない業務をさせている。例えば、自治体文書の外国語版制作、自治体から委託された翻訳業者が翻訳した翻訳資料のチェック等である。
私は日本語から外国語版の制作を専門性に欠ける外国語母語職員に当たり前のようにさせ、その後何の監督、ダブルチェックの枠組みも持たないことを不思議に思っている。日本の公的機関であれば、外国語から日本語の翻訳文の作成やチェックには専門的な知識を持つ人を充てるのであって、適当に済ませることはあり得ないだろう。

私は台湾人なので、外国語母語職員の中でも中国語母語職員との接点がある。私は中国語母語職員のつくった中国語の文を見て、そのいまいちさをダイレクトに受けとめている。そもそも読解能力がよくないから、勘違いや思い込みからミスが出ているし、母語での複雑で正確な文章づくりの経験もなく、翻訳や校正編集の業務知識もないと思われる内容のこともある。
日本人職員は外国語母語職員の文書作成能力を過大評価し過ぎている。専門知識のない人に文書をつくらせることで、自治体文書の信頼性や、自治体のイメージに影響を与える可能性があると考えないのだろうか。

非常に残念なことだが、課題を持つ人ほど、自分の母語能力に異常に自信を持っている。たとえ自信がなくても、日本人のような謙遜さなど出すはずもない。日本人職員の手前もあるのだろうか、問題点を指摘されても自分のミスを認めようとはしない。しかも、日本人職員はそんな外国語母語職員を信頼してか、ダブルチェックをしようとしない。その結果の成果物が自治体の外国人向けサービスとして提供されるのである。

■ああ中国人は簡体字中国語しか知らないんだ!

私が自治体向けの仕事で台湾人向けの繁体字版情報の翻訳をするとき、自治体は私の翻訳文を中国語母語職員に「校正」させる。その後、戻ってこないこともあるが、戻ってくれば、その校正原稿に従って再度の修正作業を行うことになる。

このフィードバックでわかることは、翻訳のチェックにかかわっている人ほぼ全て中国出身者だと想像できることである。なぜなら、台湾人向けに工夫してつくった語彙や文が、台湾人が通常使わない語彙や文に変えられてしまっているからである。

このようなフィードバックが繰り返されて、中国出身の中国語母語職員は、多くは中国以外の中華圏で使われる華語(中国語)の言い回しを知らないのではないかと確信するようになった。つまり、中国出身の中国語母語職員には、「中国語の文字には簡体字と繁体字がある」という程度は何となくわかっていても、「簡体字圏と繁体字圏の言葉の言い回しの違いは大きい」という概念がないということである。

だから、自治体の日本人職員に伝えたいのは、「あなたの自治体の中国語母語職員は中国以外の華語(中国語)の言い回しの習慣を知らないですよ」「繁体字の語彙や文章の専門知識がなさそうですよ」ということである。

日本人の中では、簡体字と繁体字の違いは漢字の字体の差程度にしか考えていないかもしれないが、少なくとも母語話者にとっては全く違うものであるので、この文章を機に認識を改めていただきたいと思う。台湾で使用する繁体字の字体や漢字数は中国の簡体字よりも複雑多様であり、言い回しの習慣もかなり違う。たかが数文字の間違いでも致命的であることは、日本人が「てにをは」がおかしいだけでざわつくのと同じである。

中国語母語話者が中国語の文章をチェックすることは、日本人職員にとっては一見合理的に見えるのだろうが、簡体字圏の人が繁体字圏の人の文章を直してしまうと、繁体字圏の人に恥ずかしくて見せられないひどいものになる。まして、今取り上げているのは、外国人向けの自治体サービスについてのことである。

(注釈)
・簡体字は、主に中華人民共和国で使われている中国語の字遣い。日本の漢字よりも簡略化されている漢字もある。
・繁体字は、主に台湾、香港で使われている中国語の字遣い。日本の漢字よりも複雑で、旧字体に近い。
・華語は、中華人民共和国「以外」で使われている中国語の意味で、最近使われるようになった。詳細は「日本の「中国語」の排他性から脱却し、あえて台湾華語と呼んでみる」参照。

■中国人が繁体字知識をつけられない残念な理由

中国出身の中国語母語職員が簡体字しか知らないのは、中国の情報統制がかなり厳しく、中国人が中国で中国以外の情報に接することが難しくなっていることの影響か、あるいは、中国は人口や面積が大きな国だから、周縁の小さいエリアも自分たちと同じだろうと思い込み、中華圏を包摂的に考えてしまうからなのだろう。
そして、中国出身者は、来日後も使いなれたウェブアプリやツールで情報をとる。つまり、日常生活において簡体字の情報を見ているのであって、繁体字の情報に接する必要はない。だから、本当に繁体字を使う人が作成した繁体字情報を見分ける能力などないと私は結論づけている。

一方で、努力さえすれば、中国人でもネット上で繁体字や繁体字圏の言い回しや伝え方を学ぶことも可能だと思う人もいるかもしれない。確かに、2010年代の初頭は、このような考え方が何とか通用していた。しかし、今はもうほぼ不可能だと感じる。それは、フェイク情報の氾濫による。
2010年代以降、「偽繁体字」サイトがどんどん増え始め、2010年代後半には、とうとう本当の繁体字圏の人がつくったネット情報を探すことが非常に困難になるほどまでに深刻化し、現在も悪化の一途をたどっている。

これらフェイク情報の大半は、繁体字を使用する台湾人が作成したものではなく、日ごろ繁体字を使わない中国人が作成したものである。日本人はもちろん、大部分の中国人ももちろんこのような現実を知らないだろう。被害を受けている繁体字圏の台湾人と香港人だけが繁体字資料を調べる不便さを感じているのである。
ちなみに、日本人が好きなグーグルだが、グーグル上で繁体字圏の人が作成した情報を探すことは既に困難になっている。ウィキペディアも同様だが、このことは別の機会に言及したい。

なお、台湾では、高齢者以外のネットを使いこなす多くの人は、これら「偽繁体字」の情報を簡単に見分けられる。これらの情報の中には台湾人が使わない伝え方があり、台湾人が文章を書くときには起こり得ない誤字があるからである。
フェイク情報が蔓延する2010年代半ば以降、台湾人がネット情報を調べていて、過って中国人が作成する「偽繁体字」サイトに入ってしまうということが増え、図らずも台湾人が中国人の言い回しの習慣を知る羽目になってしまった。

中国がつくった大量の粗悪なフェイク情報により台湾人のネット情報生活が脅かされ、深刻化したため、現在、台湾人の多くが簡体字や中国の言い回しを非常に毛嫌いしている。

■繁体字翻訳を破壊する無自覚な「改悪」例

簡体字のみに精通し繁体字圏の言語文化知識を持たない中国出身の中国語母語職員が翻訳をチェックすれば、その質は「偽繁体字」のサイトと同様になるとも言える。それはどういうことか。

私が遭遇したことのある主な「改悪」例を紹介したい。
・一部だけを中途半端に直すなど、訳語の一貫性が欠如する直し方をする。
・正しい繁体字を誤字とみなして、簡体字に直す。
・本当の繁体字の誤字を見落とす。
・上品な言い回しを、粗野な言い回しに直す。
・厳密性のある語彙表現を、曖昧な語彙表現に直す。
・安定して穏やかな文章表現を、不安定で荒い話し言葉に直す。
・台湾人がよく使う語彙や文を、中国人だけが使う語彙や文に直す。
・読み手(台湾人)の知識や情報調査能力を過小評価する。(台湾に根差した日本についての常識を知らない)
・台湾人にとって不必要な説明を勝手に追加して自分の知識をひけらかし、翻訳文中で丁寧につくり上げた読み手の好奇心を誘発する仕掛けを破壊する。

もちろん、冒頭で触れたように、経験や知識が足りないために、読み手の不利益となる「改悪」もある。
・固有名詞やシンボルマーク(例えば商標中の文字)を言葉として翻訳する。
・よくよく工夫して考えた中国語翻訳文の語彙順序を、日本語原文の語彙順序に直す。(流ちょうな翻訳を粗悪な直訳に直す)
・よくよく工夫して考えた中国語翻訳文の文の順序を、日本語原文の文の順序に直す。(流ちょうな翻訳を粗悪な直訳に直す)
・直しのための直しをする。日本人職員に自分が仕事をしていることを見せたいがために、本来は直しが必要ではない部分で無意味な加筆をする。

■日本人職員よ、露骨なことを言わせる前に気づいてくれよ

「改悪」の結果、努力してつくった本当の繁体字の翻訳文が、中国出身の中国語母語職員に踏みにじられてしまう。このような問題を私自身は幾度となく経験している。台湾人向けの翻訳をしているのに、そのフィードバックには繁体字圏の人間なら通常使わない語彙が使われ、中国人だけが持つ言い回しの習慣、つまり読み手となる台湾人が毛嫌いする表現が充満する。

「校正」のつもりで「改悪」している中国出身の中国語母語職員に、あなたの指摘は当たらない、これは合っていると一々言わなければならないストレスは大きい。彼らはこのことに無知なのだから、単なる自分へのやっかみや攻撃と捉えることもあり、素直に受けとめてはくれないこともある。しかし、このままでは、せっかくつくったものが偽繁体字のフェイク情報だとみなされてしまう、それは、読み手である台湾人が不愉快に感じるだけでなく、情報の信頼性を失墜させることだから、こちらとしても安易に妥協などできない。

心中とてもつらいものがあるが、もっとつらいのは日本人職員が、「繁体字圏の言語知識が乏しい中国出身の中国語母語職員が、台湾人が翻訳した本当の繁体字資料を校正する」ことが不合理で異常な作業方法だと気づかず、やっぱり身近な人の方を信じることである。

大変ややこしいことになっていることに日本人職員は気づいているのだろうか。私も、中国出身の中国語母語職員にメンツがあることは承知しているから、仮に指摘すると反発を受けることになる。だから、結局、日本人職員に言わなければならなくなる。ただし、私はここに書いているような中華圏の見苦しい話は日本人にしないし、忙しい自治体職員に対してこんな話をするのは時間的に難しい。字句の話にとどめると、前述のように、無知な日本人職員は中国出身の外国語母語職員を信じるので、繁体字版資料は台なしになる。

かといって、たとえ日本人職員が私の指摘を受け入れてくれたとして、私の懸案は解決しその繁体字版資料はいいものになるだろうが、中国出身の中国語母語職員のメンツがなくなってしまう。今後の彼らとのつき合いに大いに影響が出てくる。何しろ、彼らは「職員」なんだから、自分のメンツを汚した存在とつき合いたいと誰が思うだろうか。日本人職員が気づかないうちに、結果的に、今後の繁体字版資料づくりに影響を与える事態となる。

■中国母語職員が中国出身者であることの不気味

中国出身の中国語母語職員は簡体字圏の中国語のみを知る人材であって、繁体字については自治体に適切に助言しないし、事実できない。
したがって、中国出身の中国語母語職員に中国語情報の全体プランを任せるということは、彼らの繁体字への無関心がそのまま自治体の方針と直結し、繁体字の公共表示や資料など作成されようもなくなるか、優先度を落とされかねないということである。結果的に、繁体字の存在は非常に巧妙に抹殺されてしまう。

このことは、繁体字圏の人の立場に立てば、中国出身の中国語母語職員は職業上有利な立場を利用して不作為を行っているということであり、更に日本人職員の不勉強が加わり、まさに自治体業務の公正性、多文化共生時代に逆行した対応を取っているということである。

自治体としての外国語人材募集の結果とはいえ、外国人サービスの場にいるのが繁体字圏のことを知らない中国出身の中国語母語職員であって、彼らが自治体側の地位を占めていることはすごく不気味である。繁体字圏の人は簡体字圏の人が自分たちに利益があるように情報操作をするのではないかと警戒感を持たざるを得ない。なぜなら、とばっちりを受けるのは、真に繁体字情報を利用する台湾人と香港人だからである。
例えば、旅行していても、簡体字の表示や資料しかなく、繁体字のものがない自治体も少なくない。つまり、この自治体が台湾人や香港人を歓迎しておらず、中国人だけを歓迎していることを結果的に示している。そして、自治体がつくった繁体字情報があったとしても、簡体字混じりの「偽繁体字」情報を渡される。その翻訳のチェックに繁体字圏の人が入っていない証拠である。

日本人は台湾のことを親日と言うこともあって、日本人としても台湾人の気持ちに応えたいと思っているのだと思う。しかし、現実の日本の自治体の台湾向けのおもてなしとして、繁体字情報への努力は明らかに足りないどころか、やってはいけないことをやっている。これらの結果が、残念ながら中国出身の中国語母語職員では対応が難しいことを証明している。

■繁体字情報は繁体字圏の人材に任せてほしい

外国人向けに自治体が中国語情報資料をつくる際、まず、日本人職員自身が、簡体字と繁体字では専門家が違うことは理解するべきであり、中国出身の中国語母語職員がいたとしても、彼らにはできる限界があって、繁体字には対応は厳しいことを知らなければならない。そして、繁体字案件については餅は餅屋であって、簡体字圏の人をかませてややこしくすることを避け、繁体字圏の人にチェックを仰ぎ、その意見を聞く体制をつくることを希望したい。

自治体の日本人職員は数年後には異動する。新しく異動してきた日本人職員はこれまでの仕事を知る中国語母語職員を頼る。中国語母語職員は自治体にとって大変重宝な存在である。しかし、日本人職員は、中国語母語職員に仕事を丸投げできたとしても、みずからに現代漢字文化圏の教養や常識がなく、漢字文化圏の言語タブーを知らないことをなおざりにしてはいけない。特に簡体字と繁体字の溝は感情的なものも含めてかなり深く、日本人職員の無知がややこしさを生んでしまうこともあることに留意が必要である。
そして、中国語の知識があると考える日本人職員も、自分の中国語の偏りを検証する必要があることも指摘したい。以前、「台湾人に「早上好」と挨拶してはいけない理由」という文章で取り上げたが、日本で学んだ中国語ならば、それは簡体字圏の中国語にすぎず、繁体字については実は全然知らないんだという謙虚な気持ちを持ってもらいたい。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

言葉遊びをオヤジギャクと否定する日本文化

台湾で『ドラゴンボール』の翻訳版を読んでいたころ、悟空が界王のもとで修行するシーンに入って、登場人物が何を言いたいのかわからないところがあった。

その内容はというと、界王が悟空の目の前で「誰も電話に出ない」と独り言を言い、自分のジョークのできを自慢し、悟空には自分を笑わせられる冗談を言わないと修行をさせないというものだった。悟空は「布団が飛んだ」と言い、界王を笑わせたのである。【注1】

当時の私は、このやりとりの意味が全くわからなかった。

翻訳作品を読んでいて、理解できない翻訳の内容を見たら、普通は自分の妄想で補うしかない。当時、私が思ったのは、界王のユーモアのセンスは変で、悟空のユーモアのセンスも変だから、両者は変なユーモアでも通じ合えたのだということだった。

日本語を勉強して数年たってから、やっとこの冗談の意味がわかった。
すなわち、「誰も電話に出ない」とは、「(誰も)電話にでんわ」であり、「デンワ」の音遊びをしているのである。「布団が飛んだ」とは、「フトンがふっとんだ」であり、「フト(ッ)ン」の音遊びをしているのである。あの翻訳は、こういう日本語表現を再現していなかったのだ。
「電話にでんわ」や「フトンがふっとんだ」のような日本語表現は、もともと偶発的な結果が冗談になったものである。他の言語に翻訳すると、このような偶発性はなくなってしまう。
私が読んでいた翻訳は、字面を文字どおり翻訳したにすぎなかった。そして、翻訳された内容は、もちろん日本語オリジナルの発音の特徴を持ち合わせていない。だから、翻訳版の漫画を読んでも、このやりとりは理解できないのである。

私が初めて翻訳版の漫画を読んでから原作中のやりとりを理解するまでには、10年以上の時間があいた。さらに、私がこのやりとりの意味が理解できるようになってからまた何年もたち、ようやく、この種の、同じ音や似通った音の語彙を文章中に使っておもしろみのある言葉遊びをすることを日本人は「おやじギャグ」とか「ダジャレ」と言うことがわかった。

■言葉遊びの大衆化 実は歴史は意外に浅い

中国語では、言語表現の中に出てくる同音又は類似音の現象は「諧音」と呼ばれる。中国語におけるこの諧音による言葉遊びには、日本語でいうところの「おやじギャグ」とか「ダジャレ」のような決まった呼び方はない。「諧音遊戲」とか「諧音笑話」などの造語で、この種の行為や状態を説明するしかない。

中国語にこの種の固定的な呼び方はないのは、この種の言葉遊びの「大衆化」の歴史が長くないからかもしれない。
言葉遊びの基本は言葉に対する感性だから、華人世界での教育がそれほど普及していなかったころは、言葉遊びはごくわずかな知識層の娯楽にすぎなかった。
私が小さかったころには既に台湾で教育が普及していたが、時あたかも独裁政権下である、大衆は為政者が決めた「道徳儀礼」を守らなければならなかった。言語表現について注意深さが足りなければ、殺されかねないことも起こり得た。
大人が言葉遊びをするのを聞くことは少なかったが、全くなかったわけでもなかった。例えば、何かを確認するときに「真的?」(「蒸的?」と同じ発音)と尋ねると、相手が「煮的」と答えていたのを聞いたことがある。【注2】

当時は、実はこういうやりとりに余りいいイメージを持たなかった。確認を求めている相手は内心不安に思っているのでは、真面目に答えなければ、相手は余計に不安になるだろうと思っていた。

小さいころ見た諧音による言葉遊びのやり方は、コミュニケーションとして意地悪過ぎるとは思ったが、一方で、学校で習う新しい言葉の中にある、読み方が同じか似通っている語彙に興味を持つようになったのは確かだ。
長じて大学に行ってからは、台湾社会が言論や表現について開放的になっていたこともあり、クラスには、日常的な会話の中に言葉遊びを入れるのが好きな同級生が何人もいた。もちろん、これは諧音を使った言葉遊びである。私の専攻は理系だったのに、これらの言葉遊びが好きな同級生は芸術や文学の感性も持ち合わせ、独創的なキャラクターだった。これらの同級生が私に少なからぬ刺激を与え、私も、言葉を斬新で巧妙に表現することに興味を持った。

現在の台湾では、諧音による言葉遊びはかなり大衆化している。商店、飲食店、商品の名前にも諧音が使われている。これらの諧音を使った名前には、上品でないもの、低俗なものもあるが、多くは大変斬新で巧妙でおもしろい。どれも、店名や商品名を見て記憶にとどめてもらえるようにすることが目的だ。表現がそれほど極端なものでなければ、人々は寛容な態度でそれを見ている。

■日本の「ダジャレ」に向けられる差別的な扱い

私は、来日したばかりのころ、日本語学校に1年半通った。
最初の半年は初級日本語で、テキストを進めていくと短文をつくる練習が入ってくる。私は習ったことがある日本語の語彙を使って、独創的な文づくりに励んだ。
あるとき、授業で短文をつくるときに、日本語の類似音の語彙を使った。クラスの同級生は笑った。日本語教師も笑ったが、その後すぐに、大きな声で「おじさん」と私に言った。

当時の私でも、日本語の「おじさん」の意味は知っていたが、その日本語教師がなぜ私に「おじさん」と言ったのかはわからなかった。恐らくそのとき、クラスの外国人留学生のみんなも、その日本語教師がなぜ「おじさん」と言ったかはわからなかったと思う。とはいえ、日本語教師が笑っている様子からは、悪意はないが、決して私を褒めたのでもないことはわかったのではないか。

後々になって、私は、あの日本語教師が「おじさん」と言って冷やかした意味がわかった。当時、日本語初級の学生には「おやじギャグ」という言葉は通じないだろうから、「おじさん」と言ったのである。この真実にたどり着いたとき、とてもショックだった。
あの日本語教師には悪意がなかったと信じてはいる、彼女は「おやじギャグ」が好きではなく、私のように、日本に来てから半年もたっていない、日本語が初級レベルの外国人に対して、反射的にうっかり言っただけかもしれない。

多くの日本人は諧音による言葉遊びを嫌っているようで、「おやじギャグ」とか「ダジャレ」とこの言葉遊びのことを呼んでいる。この種の呼び名からは、日本人が心の奥底では「おやじ」を疎ましく、差別さえしていることも垣間見られる。

日本に住む外国人の立場としていえば、努力して日本語を勉強することは、その国や社会や文化を尊重する行為だと考えているし、努力して日本語をマスターしたいとも思う。しかし、この種の抑圧的な言語表現の文化に適応することは容易ではない。
日本語に興味を持つ人は日本語のいろいろな表現の可能性を探すのは当然だと思うが、同時に、この言語表現を試すことは、冷ややかなあざけりに遭遇するリスクがある行為でもあるのだ。このことに大きな矛盾はないだろうか。

私は日本に住んでから10年以上たった今でも、日本人が「おやじギャグ」という言葉を使うのを聞くと悲しくなってくる。日本語学校でのあの経験は、本当によくない経験だった。
このような心のもやもやを克服するには、デーブ・スペクターのツイートを見るといいのかもしれない。彼のツイートには独創的な日本語の言葉遊びがたくさんある。しかも、彼は「おじさん」と言われることを恐れない。彼のような存在こそ、ただただ日本語をマスターしたいと思う外国人にはとてもいい刺激になっている。

【注1】当時読んだ漫画は繁体字中国語のもので、純粋に「誰も電話に出ない」と「布団が飛んだ」などの「意味」としか認識できなかった。
【注2】「真的?」は「本当?」という意味。「蒸的?」は「蒸したもの?」という意味。「煮的」は「茹でたもの」という意味で、「本当?」という確認を無視して料理のことに話題をそらした意地悪な答え方をしている。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

日本の「中国語」の排他性から脱却し、あえて台湾華語と呼んでみる

日本で十数年生活をしている中で、日本人から、たまに「台湾で使われる言語は何か」と聞かれることがある。
台湾に行ったことがある、あるいは日本の周辺国の事情をある程度わかっている日本人の頭の中にある答えは「中国語」であると思う。
私が日本に来たばかりの頃、このような質問を受けたときには、迷うことなく「中国語です」と答えていた。
しかし、日本に長く住むようになって、この質問の答えは難しいと思うようになった。それは、同一語彙でも、人によって言葉を捉えるニュアンスがばらばらだからである。「中国語」という語彙はまさにその典型例である。

なお、フランスで使われる言語はフランス語、ドイツで使われる言語はドイツ語という感覚でいえば、台湾で使われる言語は中国語ではなく台湾語だろうと考える人もいるかもしれないが、この文章はそういうことを言いたいわけではないことを冒頭断っておきたい。

■日本人の考える「中国語」は、私が考えるものと違っていた

私が日本語を勉強し始めた頃に使っていた日本語教材では、台湾で使う言語は「中国語」となっていた。そのときは、それはそうだろうなと思ったし、これまでこの語彙の持つニュアンスをいぶかしむことはなかった。そして、来日後、日本人から「台湾で使われる言語は何か」と聞かれれば、私は勉強したことがある日本語の語彙である「中国語」を答えていたのである。
しかし、日本に住み始めてしばらくしてから、多くの日本人が考える「中国語」と、私が考える「中国語」とは違うことに気づいた。

私が「中国語」と捉えているのは、
・世界の華人の最大多数の共通言語(地域的に言い回しの習慣や発音が違っていても、コミュニケーションはとれる)
・使用する文字は繁体字と簡体字の両方

日本人の「中国語」に対する印象は、
・中国人が使う言語
・ちまたの「中国語教室」で教える言語
・大学の第二外国語の「中国語」で教える言語
・一般的な書店にある「中国語」教材で教える言語
・NHKの「中国語」講座が教える言語

つまり、日本人と私では、「中国語」という言葉のニュアンスの捉え方に大きな違いがあったのである。

日本で生活し始めて、中国語を勉強中という日本人に会ったことがあった。その日本人は、私と会う以前には、中国語に「繁体字」があることを全く知らなかったし、「簡体字」が20世紀後半になってからつくられた文字であることも知らなかったという。
初めのうちは、こういう人はごく少数派だと思っていたが、日本に住んで長くなり、これは少数ではなく多数を占めていることがわかった。中国語の文字に繁体字と簡体字があることを知る日本人はむしろ少数派である。日本人が中国語を勉強するときには、教わるべき中国語の知識の多くが周到に抹殺されているからである。

日本人と私の「中国語」のニュアンスの捉え方の違いがあることによって、私が日本人に、台湾で使われる言語は「中国語」だと言ってしまうと、日本人は、台湾で使われる言語は、ちまたの中国語教室、大学の第二外国語、書店の中国語教材、NHKの中国語講座のものと全く同じだと思われてしまいかねないのである。

日本人が上記のようなルートで「中国語」を勉強しても、台湾人と確かにコミュニケーションできるが、上記のルートが教える「中国語」は、台湾で使われる「中国語」の発音や言い回しとは同じではないし、文字の違いは非常に大きい。そして、うっかり使ってしまうと、相当失礼になることもある。
しかし、これらの「中国語」を教えるルートでは、日本人にこういう事実をほとんど教えないのである。私は、中国語学習経験のある日本人が中国以外での「中国語」の発音や言い回しを知らないでいることに数多く遭遇している。

日本人の多くは、英語にはアメリカ英語とイギリス英語があることを知っている。一方で、「中国語」においては、意外にも中国以外の「中国語」を知らない。この現象はとても奇妙である。日本人が捉える「中国語」とは、周到に操作された、非常に狭くて排他的な「中国語」なのではないだろうか。

■「中国語」と呼ばない呼び方――北京語とかマンダリンとか

台湾の言葉について、日本人から質問されて戸惑ったことは幾つかある。それは、日本人の「中国語」に限らず、日本人自身がその語彙についてどのように捉えているかわからないから答えにくい。

例えば、台湾の言語は「北京語」なのではないかという質問である。台湾の言語を知らない人は元々中国語に対する固定概念はないのだから、聞いたことがある言語の呼び方を言っているだけかもしれないのだが、自分の歴史認識や中国人との交流経験から、日本人の考える「北京語」のニュアンスを想像するしかない。
自分なりの答えとしては、台湾の言語と「北京語」とは似ている、台湾人は北京語話者とコミュニケーションできなくはないが、互いに文字の違いは大きいし、発音や言い回しも違う。それから、台湾の言語と北京の言語は、互いに起源は同じでも、従属関係ではない。台湾人は当然、台湾の言語が現代北京語から端を発したものとは思っていない。

「マンダリン」というのは何かと質問されたこともある。英語のMandarinの意味は知っているが、日本人の考える「マンダリン」は普通に会話で使われていて、厳密性を持った学術用語ではない気がする。
私の捉え方だが、現在のMandarinはChineseとほぼ同じ意味である。台湾や中国では、自分の言語の英語での呼び方はChineseだが、東南アジア諸国の華人の間では、華人の共通言語の英語での呼び方はMandarinとなっているのかもしれない。
私は日本で、シンガポールやマレーシアの華人の観光客に英語で道を尋ねられるとMandarinが話せるかどうかを確認している。彼らは確かにMandarinという言葉を知っている。そして、基本的に「中国語」でコミュニケーションできる。もちろん、私と彼らが話す「中国語」と、中国人が話す「中国語」とは、発音、言い回しは同じではない。彼らが使う「中国語」は「華語」と呼ばれている。
なお、台湾での英語教育では、台湾の公用語の英語での呼び方はずっとChineseなっていて、だから、台湾人はMandarinという言葉に不慣れな人が多い。台湾人が普通、外国人に英語で台湾の公用語について説明するときは、Chineseという言葉をほぼ使う。

ほかにも、中国語学習経験のある日本人であれば「普通話」という言葉を知っているかもしれない。
台湾人も「普通話」という言葉を知っているが、台湾ではこの言葉は使わない。
台湾人のイメージする「〇〇話」は幼児語をイメージさせる表現であり、完成度や上品さに欠ける。幼児の語彙は少なく、「語」という言葉のニュアンスで理解しようがないから、「語」に代わってやや簡単な「話」を使うと考える。中国の「普通話」という言葉が台湾人に与える印象というのは、中国語の伝達能力のこなれていない人が、無理やりかき集めた幼稚な語彙だということである。
ほかにも、「〇〇話」というのは、台湾人に一種の「系統立っていない原始的な言語」という印象をも与えている。例えば、「日「語」」は一種の体系化されて完成した言語という感覚だが、「日本「話」」になると粗野で原始的な印象を与えることになる。

■台湾では、台湾で使われる言語をどう呼んでいるか

台湾の言語を知るには、まず、台湾国内では自身の言語をどのように呼んでいるかを知っておくべきであろう。
台湾国内には多くの言語がある。最もよく使われているのが「国語」と「閩南語」(びんなんご)である。ほかにも、客家語、原住民族の言葉、閩東語、手話などがある。
この「国語」をより日本人がわかる言い方にすると、「台湾の中国語」である。台湾の公用語は「国語」で、台湾の小学生の科目名でもある。「国語」は、台湾人の国内向けの公式の言語の呼び方である。台湾の国内での他の言語とを分ける言い方として使われる。

一方で、「国語」と外国語とを区別する言い方として、台湾人の多くは「中文」という言葉を使う。そして、少数だが「華語」という言葉を使う人もいる。
「中文」は、「国語」の対外的な一般的な呼び方である。「中文」という語彙のニュアンスは曖昧で、「国語」という言葉を指したり、文字や文章を指すこともある。そして、「華語」は通常、外国人が台湾で「中国語」を勉強するクラスあるいは教科書の呼び方である。台湾人の間でこの呼び方を使う人は少ない。
ただし、台湾人の中でも、「国語」という言葉は台湾国内の言語を階級づけていると考えたり、「中文」という表現は中国に独占されがちだから、別の表現で台湾の「国語」と中国大陸の言語との差異を強調したいと考えたりする人は、「華語」という言葉を使う傾向にある。
2018年、台湾では台湾国内の言語はひとしく平等とうたう「国家言語発展法」が成立した。したがって、今後「華語」は「国語」に代わる存在として、呼ばれるシーンが変化してくるかもしれない。

話を台湾国内に戻すが、閩南語は福建南部の言語で、台湾では台湾語と呼ばれる。現在の台湾では、約7割の人が閩南語を話せる。ただ、言語の使用人口は時間とともに変化している。以前、私がまだ日本に来る前には、閩南語は台湾中部や南部では日常的な言語だった。しかし、現在は台湾の若者の多くは小さい頃のみ閩南語を話し、学齢以降は徐々に国語を話すように変化してきている。その結果、台湾人の若者世代の多くは、閩南語能力が児童あるいは青少年期の家庭会話のレベルにとどまっている。

日本人から見た台湾の国語や閩南語というのは、標準語と方言を連想するかもしれない。しかし、台湾人の感覚からすると、日本語の標準語と方言の違いというのは単に発音、言い回し、あるいは語尾といった表現のバリエーションであり、本質的にはやっぱり同一の言語である。台湾の国語と閩南語の発音は全く違うし、言い回し表現の違いも大きい、全く違う言語なのである。

■「台湾国語」や「台湾語」のややこしさ

台湾の公用語は「国語」である。国語は日本語にもある言葉だからと、日本人が台湾の国語を便宜的に「台湾国語」と呼んでしまうとややこしくなる。台湾では、「国語」とは異なる概念で「台湾国語」がある。
「台湾国語」とは、閩南語の発音や言い回しを特徴とする国語のことである。母語が閩南語の人は、学校などの国語教育環境がよくなければ、国語を話す際に閩南語的な発音の癖が出たり、言い回しも閩南語の語彙を国語に直接変換したりしてしまう。これが「台湾国語」である。日本にいる外国人の話す日本語の中に、母語の発音や言い回しの習慣が出るような感覚である。

台湾の言語だからと、日本人が台湾の言語を台湾語と呼んでしまうこともややこしくなる。
以前、私は、東北にある自治体の台湾人向けの観光資料をつくったことがあった。そのとき、自治体職員は連絡の際に「台湾語」という言葉を使っていた。この職員は、台湾と中国を区別したくて、「台湾語」という呼び方を使ったのだろうか。
日本語学習経験のある台湾人の感覚では、「台湾語」が示すのは、「台湾の中国語」ではなく、閩南語のことである。それは、閩南語の台湾での伝来が「台湾の中国語」よりも早かったからである。実際、日本における「台湾語」に関する書籍で紹介されている言語は「台湾の中国語」ではなく「閩南語」である。
「台湾語」という言葉は誤解されやすいので、私はそのとき、自治体の職員に「台湾語」という言葉のニュアンスを教えたのだった。

ちなみに、このようなややこしさは台湾人自身にも起きているようだ。
2年ほど前、NPBの試合終了後、台湾人のプロ野球選手がヒーローインタビューで、「台湾語でしゃべるのがいいですか」と話していたのを見た。この言葉を聞いて、私は、この選手が閩南語でインタビューに答えるのだと思っていた。しかし、選手がしゃべった言葉は「台湾の中国語」だった。このことはすごく印象に残った。
もちろん、私は、この選手が「台湾語」という呼び方を使おうとする感覚は何となく理解できた。彼は台湾出身の選手で、日本人には台湾に関心を持ってもらいたい、それでいて中国人と違う存在であることも望んでいたのかもしれない、だから、「中国語」という言葉を使わず「台湾語」を使ったのだろう。これは即興でのちょっと変則的な伝え方だったのだが。

■「台湾の中国語」から「台湾華語」へのトレンドの背景にあるもの

実は、2000年代において、台湾人は「中国語」という言葉にそれほど特段の抵抗感はなかった。「中国語」というのは単なる日本語教材の中にある一つの単語だった。台湾人が日本人に自分の言語を紹介する際には、この言葉を言えば日本人は理解できた。私がブログをつくり始めたときも、台湾の言語についての文章のために「台湾の中国語」というカテゴリーをつくっていた。

しかし、2010年代以降、台湾では、中国からの嫌がらせが多くの面において目立ってきた。台湾の選挙やメディア報道は深刻な妨害を受け、ネット情報は中国から故意につくり出された大量の「偽繁体字」情報で汚染させられている。中国人は普通、海外のネット資料を自由に閲覧できないが、奇妙なことに、台湾のネット掲示板やSNSでは中国ユーザーの攻撃や嫌がらせ、脅迫さえも受けている。日常的な情報生活で深刻な影響を受けているから、台湾のネット世代は中国に対してかなりの嫌悪感を持っている。その「中国語」と自分たちの言語を一緒にされたくないのである。
また、別のところでは、台湾人が日本を旅行していて、日本の「中国語」が、中国人の簡体字「中国語」だけを歓迎し、繁体字圏の台湾人や香港人を無視していることにも気づいてきている。そして、日本に住む台湾人は、挨拶から始まり、いつまでたっても台湾人が使う中国語が一顧だにされていないことに遭遇し、日本人が勉強する「中国語」は多くの現実的な言語知識を隠した意図的に操作された言語であると懸念している。
日本におけるこれらの状況が、結果的に台湾人が日本語の「中国語」という語彙に嫌悪感を持たせることになっていくかもしれない。

ここ最近、「台湾華語」という言葉が昔より多く使われるようになったと私自身、よく感じている。それは、台湾人が「台湾の中国語」に嫌悪感を持ち、日本人向けに自分の言語を説明するときに「台湾華語」を使うように変えてきているということである。
「華語」という言葉は台湾人の間ではあまり使わないが、外国人が台湾で言語を勉強するときに、そのクラスや教科書の呼び方は通常「華語」を使う。ほかにも、シンガポールやマレーシアの華人が、華人の共通語について「華語」という呼び方を使っている。「華語」というのは国際的な色合いを持つ語彙である。実は、日本の主要な国語辞典にも「華語」という言葉が載っている。
「台湾華語」と言えば、深刻な排他性がある日本の「中国語」と区別でき、台湾人が日本人に自分の言語を紹介する際に、日本人自身に内在する「中国語」あるいは「北京語」という先入観の枠にはめられずに済むのである。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

台湾人に「早上好」と挨拶してはいけない理由

――意図的に抹殺された台湾の基本挨拶表現

台湾人である私が日本で生活してもう十数年がたつ。この十数年間、私には中国語学習経験のある日本人と交流する機会が少なからずあった。その日本人の何人かは、中国語をかじったことがあって簡単な自己紹介ができたし、結構長く中国語を勉強した人、中国語の通訳案内士の資格(日本の国家資格)を持っている人もいた。しかし、私が出会ってきた中国語がわかる日本人の誰一人として、台湾の一般的な挨拶表現を知る人はいなかった。

十数年間、一度も出会ったことはない。それは確率的に見て、極めて異常である。
実は、日本で生活し始めたばかりのころから、中国語学習経験のある日本人の多くが台湾と中国との言葉の違いを知らないことに気づいていた。
だから、ブログを開設したときには、そこで台湾の一般的な挨拶表現を紹介したこともあった。
参考:台灣的一般問候語(あいさつ)
あれから十数年がたち、ネット情報も充実した。にもかかわらず、この状況は依然として変わっていない。やっぱり、日本で台湾の基本的な挨拶表現を知る日本人に出会ったことはない。

私が出会ってきた中国語学習経験のある日本人は、「早上好」(おはよう)、「晚上好」(こんばんは)という挨拶表現を知るのみだ。実は、「早上好」「晚上好」は、中国でしか使われていない挨拶のやり方である。台湾では使っていないし、香港でも使っていない。つまり、繁体字圏の人はこの種の挨拶のやり方はとらないのである。

■「早上好」と言われる気まずさ

日本が2005年に台湾向け短期ビザ免除の優遇政策を開始し、その後、多くの台湾人が日本旅行をしてきた。中国語学習経験のある日本人の中には、台湾人観光客に遭遇したら、自分が学んだ中国語の挨拶を使って好意を伝えたいと思う人もいるかもしれない。そして、「早上好」「晚上好」を、礼儀正しい歓迎表現として、台湾人がこれらの挨拶を聞くと喜んでもらえるだろうと思って言うのかもしれない。

実は、台湾人がこの種の挨拶を聞くと、戸惑い驚く。なぜなら、日本人は中国人のみを歓迎しているのであって、台湾人を歓迎していない、だから「中国でしか使われていない挨拶のやり方」を使っているのだと考えられなくもないからだ。きつい言い方をすれば、日本人は台湾を否定しているも同然の挨拶をしており、とても深刻な言語文化のタブーを侵しているのである。
日本人が韓国や北朝鮮の扱いの違いで不用意な言動をすれば、韓国人は猛烈に抗議をするかもしれない、だから、日本では韓国関係のタブーを非常に注意深く扱うはずである。その一方で、日本人が中華圏の事情について扱うときには、そのやり方は非常にいいかげんで、台湾人は往々にしてさげずまれる側だ。
台湾人がこの種の失礼に遭遇しても、恐らくその場面を気まずいものにさせたくないから、日本人に「台湾人に対してはこの挨拶はとても失礼だよ」とは言わないのである。泣き寝入りしかできない、だから、日本人は自分が深刻な言語のタブーを侵したとは全くわかっていないし、きっと死ぬまでわからないかもしれない。
結局、中国語学習経験がある日本人が台湾人に好意を伝えるため「早上好」「晩上好」を使うことによって、実際にはかえって台湾人を傷つけかねないのである。

類似の状況は文字資料においても起きている。日本にある観光サービスカウンターで台湾人観光客が観光パンフレットを求めるときにも、極めて無神経なことに、簡体字版の資料を渡されかねないのである。日本人は、あろうことか、台湾人が簡体字中国語の資料を見て喜ぶと思っているのである。
実際には、台湾人はそのとき、ああ、日本人は、簡体字圏の中国人だけを歓迎しているのであって、繁体字圏の台湾人を歓迎していないのだ、だから、簡体字版の資料を出してくるのだと思うのである。台湾人だけでなく、実は「純粋な」香港人が簡体字パンフレットを受け取るときにも似たような感覚を持つはずである。
台湾人と香港人がこの種の状況に遭遇するとき、その場面を気まずいものにさせたくないから、ずっと黙って我慢するのである。ここでできる抗議行動とは、簡体字のパンフレットを断り、日本語か英語のパンフレットを受け取ることもある。日本語や英語のパンフレットを持つのは、外国語で見なれなくてもその方がましだということであり、それほど簡体字を見たくないということである。
ここまで述べてきた中でも、台湾人が日本の「簡体字サービス」に反感を抱いていることが少しはわかってもらえるだろうか。このような話題は、台湾のネット掲示板で何回も議論されているものだ。

日本にありがちな台湾の言語タブーについては「中華圏の多様性を破壊する日本の自治体職員の無知」も見てください。――2021年9月追記

■今からでも台湾の基本挨拶を知ろう

外国語を学ぶ際には、その最初の段階で基本的な挨拶を学ぶ。ほとんどの外国語教材では、基本的な挨拶はその教材の最初にある。挨拶は非常に基本的な好意を伝える手段である。しかし、この十数年間、私が日本で遭遇する中国語学習経験のある日本人の中で、台湾の挨拶表現を知る人に会ったことは本当にない。
日本人のために、以下、台湾の基本的な挨拶のやり方を改めてまとめた。

〈台湾の挨拶方法〉
・朝の挨拶:早安。
・お昼、午後の挨拶:午安。
・夜の挨拶:晚安。
・時間を問わず使える挨拶:您好。

これらのうち、「早安」という挨拶は、割と深く台湾に根を張っている表現である。1979年、当時まだ台北市長であった李登輝が、「早安晨跑」という健康のために早朝にジョギングをするキャンペーンを推進している。また、台湾の「早安您好台視新聞」(おはよう台視ニュース)は1988年から続くニュース番組である。番組名の「早安您好」は、その後の台湾のサービス業における挨拶に影響を与えている。
これら「早安」、「午安」、「晚安」、「您好」は、台湾の挨拶の基本形である。カジュアル表現としては、朝は「早」、「早啊」、ほかの時間帯では「你好」という言い方もある。

以前、私が日本の東北地方のある自治体で台湾人観光客の受け入れの手伝いをしていたところ、日本人のバスガイドが朝の集合時間前に「早上好」を言う練習をしていた。バスガイドは自分の知っている中国語で台湾人観光客に歓迎を伝えたかったのかもしれない。
私はすぐに、そのバスガイドに、「早上好」は中国人にのみ使うのであって、くれぐれも台湾人に向かっては「早上好」と言わないでほしい、これはとても失礼になりかねないからと話した。
その際に私が提案した挨拶は「早」である。「早」は発音が短く、相手に愉快な気分を伝えられる。台湾では、早の散歩やハイキングで人とすれ違うときには互いに「早」という挨拶を交わす。「早」はとてもよく使われる挨拶表現である。
バスガイドは、お客さんを気楽にそして愉快な気分にさせる、かた苦しさは不要なのだから、「早」という挨拶が使える。
なお、ホテルのフロントや比較的厳かな場での接客であれば、挨拶のやり方も違ったものになる。

〈台湾の正式な場での挨拶方法〉
・朝の挨拶:早安您好。
・お昼、午後の挨拶:午安您好。
・夜の挨拶:晚安您好。

■挨拶言葉の歴史文脈

「早安」、「午安」、「晚安」は台湾独自の挨拶ではない。18世紀、清の時代の名作小説『紅楼夢』にはこれらの言葉が全部出ている。その後、19世紀から20世紀初頭にかけてのいろいろな口語小説の中にも使われている。まさに挨拶の定番表現だ。これらの小説の言語表現は現代中国語とほとんど共通しているため、台湾の中学生であれば簡単に読める。
1923年に華人教育学者の夏丏尊が翻訳したイタリア小説『クオーレ』にも「早安」という言葉を使われている。この中国語翻訳版は、当時の華人世界のベストセラーである。つまり、「早安」、「午安」、「晩安」は、本来的には現代中国語の基本挨拶だったのだろう。
ただ、中国では何らかの原因があってからこの言葉が使われなくなり(文化大革命によって言語知識が断絶されたからなのか)、結局、この挨拶は中国にはないが、台湾にはある表現となっている。

一方、「早上好」という表現は18、19世紀の口語小説に使われていない。魯迅が翻訳した森鷗外の小説『あそび』(『現代日本小説集』に収録され1923年に出版)には「早上好」という言葉が使われている。しかし、魯迅が翻訳した『あそび』の翻訳の質はよくなく、訳文の多くは直訳でぎこちない。夏丏尊が翻訳する『クオーレ』にも直訳は多いが、全体的には魯迅の翻訳よりも滑らかで読みやすい。このようなことから推測できることは、魯迅が『あそび』を翻訳した当時は、母語の文章能力がそれほどではなかったから、翻訳された文も中国語らしさがなくなっているのではないかということである。
実際、1980、1990年代の台湾と中国との交流において、台湾人が中国人から「早上好」という言葉を聞いてまず感じたのは、ぎこちなく、しっくりこない、言葉の伝達になれていない人が自分の知っている語彙の中から無理に寄せ集めてできたのではないかということである。

中国が「早上好」を使うのは、恐らく魯迅の影響を受けたものではなく、可能性としては、文化大革命がもたらした文化の断絶で、正常な人とのつき合い方がわからなくなり、挨拶のやり方がわからなくなったから、政府が社会を再構築するため、人々の基本社交語彙が足りない中で、無理やり「早上好」という、ぎこちなくてしっくりこないが通じる挨拶語をつくったのではないか。

■日本人の中国語教育から抜かれた知識

私が台湾の中学校で英語を勉強したとき、英語の先生は、アメリカとイギリスの英語は同じではないと教えていた。例えば、秋は、アメリカでは「fall」と言い、イギリスでは「autumn」と言う。サッカーは、アメリカでは「soccer」で、イギリスでは「football」である。私が高校、大学と進学し、その時々の私の周りにいる同級生には皆これらの英語の常識が身についていた。それは、台湾の英語教師が学生にこれらの基本的な言語知識を伝えるからである。
台湾と中国で使われる文字の違いはアメリカとイギリスの文字の違いよりもはるかに大きいし、文字によっては読み方やアクセントが異なるものもある。台湾人は通常、台湾と中国の言葉遣い、発音、アクセントの違いを区別できる。これは最も基本的な言語知識である。

一方で、これまで再三紹介したように、私が日本で遭遇した中国語学習経験のある日本人は、台湾での基本的な挨拶を知らないことから推測するに、日本人が中国語を勉強するときに、中国語教師のほとんどは恐らく「中国語の文字には簡体字と繁体字がある」、「簡体字は20世紀後半になってできた文字」、「早上好は中国でのみ使われ、台湾や香港では早上好は言わない」と日本人に教えていないのではないか。
日本で中国語を教える中国人が日本人にこれらの事実を伝えないのは、基本的な言語知識が足りないということかもしれないし、他の原因として、日本人に中国語世界の真実を知ってほしくないから、わざと隠しているということかもしれない。まさか基本的な言語知識が足りない人が中国語を教えることはないだろうし、言語知識があるのに日本人に事実を隠蔽しているということでもないだろう。
あるいは、台湾人として、いかなる善意な気持ちをもってこれらの現象を見たとしても説明がつかないのだから、結局、日本人に対して悪意のある言語文化の情報操作がなされていると断ぜざるを得ない。私が遭遇した中国語学習経験のある日本人の状況を見れば、この種の言語文化の情報操作は日本では相当深刻である。

■使わない言葉がまざるネット情報汚染

ネットが発達した時代にあって、多くの人がネット翻訳サービスを使っている。しかし、あいにく、天下のグーグル翻訳でさえ「おはようございます」を繁体字中国語に翻訳すると、翻訳結果には「早上好」が出てくる。もっと言えば、これはほんの氷山の一角である。
グーグルの繁体字中国語翻訳の多くの翻訳結果には、繁体字中国語圏では決して使わない語彙がまざる。しかも、日本語からの翻訳に限らず、英語から繁体字中国語に翻訳する際にも類似の問題がある。これらの現象の最大の被害者は、繁体字圏の言語文化である。
何者かがグーグルの繁体字翻訳結果を「簡体字圏で使用される語彙のみ」にさせたいがため、グーグルの翻訳AIを汚染したいのだろうが、これには相当大規模な動員が必要だろう。それにしても、中国国内に住む中国人はグーグルを使わないし、海外の中国人もわざわざグーグルの繁体字翻訳機能を使うことはないのだから、この現象の背後にあるものは単純なものではない。


グーグル翻訳の繁体字中国語の翻訳結果
(2021/2/28確認)

ネット上の中国語情報は、ネット翻訳のほか日常生活情報も大量に汚染されているというのが多くの台湾人の実感だ。しかも、これらの繁体字中国語情報の中には繁体字圏では使わない語彙が氾濫しているのだから、繁体字圏ではない人がつくった情報が、繁体字圏発の情報を駆逐しようとしていることは明確である。情報汚染の問題は相当深刻で、これらの話題は台湾のネット掲示板で何度も提起されている。ネット情報に関心を持たない高齢者にはその感覚はないかもしれないが、生活の中でネット情報に触れる台湾社会の中堅層や若年層は深刻な被害を受けており、簡体字を使う人へ反感を抱く結果となっている。

なお、日本政府が主導して開発しているスマホ翻訳アプリの「Voicetra」でも、日本語の「おはようございます」は、繁体字中国語圏で決して使わない「早上好」が出てくる。日本の観光庁は観光業界に「Voicetra」で外国人とのコミュニケーションをとることを推奨しているが、「Voicetra」の繁体字中国語の翻訳結果から見ると、逆に台湾人や香港人の観光客の心を傷つけるのではないだろうか。


Voicetraの繁体字中国語の翻訳結果
(2021/2/28確認)

日本政府は、観光立国を推進するに際し、外国人の宗教、飲食、生活習慣等のタブーに留意するとしている。しかし、言語文化のタブーについてはおろそかにしていないか。しかも、日本に隣接する国家から発生している問題である。
私が知る中国語の通訳案内士資格を持つ日本人でさえこの種のことがわかっていない。もちろん、全然おかしくもない、なぜなら、日本人には「中国語資料が汚染されている」という問題を感じ取れないのだから。
ほとんどの中国語学習経験のある日本人は多分、世界に「繁体字」があることを知らないところから始まり、「早上好」が中国人のみの挨拶であることも知らない、この種の情報はよくわからない理由で抹殺されている。台湾人から見れば、これは中国語世界の文化的な悲劇である。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)