日本のひどい中国語研修資料

数年前に見た、ある観光業に関する中国語教材のことが忘れられない。その教材は、通訳案内士と関係のある団体が制作した研修資料の一つだった。ホテル、レストラン、観光案内所、非常時の対応等各種場面を盛り込んだ会話集で、日本語会話例文の下には簡体字と繁体字の例文がついていた。通訳案内士や観光業の接客現場の人向けに、実際の場面で役立てられることを期待して、わざわざこのような資料が用意されたのかもしれない。

通訳案内士と関係のある団体が発行した外国語教材なのだから、さぞかし権威があるそれなりのものだと思っていた。通訳案内士は日本で唯一の語学に関係する国家資格なのだ。しかし、私はこの中身を見て、その内容の大変なひどさに驚いてしまった。なぜなら、現実の中国語世界で使用しない表現で満ちあふれていたからである。

■ひどい理由1 日本語例文がひどい

この教材のタイトルの一部には「中国語テキスト」と書かれているので、日本人が普通このような表現を見れば中国語教材だと思うはずだし、私が初めてこのタイトルを見たときにもそう思っていた。しかし、実際にその中身を見て、そうではないことがわかった。この研修資料の中国語の例文は日本語の例文を翻訳したものにすぎず、むしろ「日本語テキスト」に中国語の翻訳がついているといった方が正確なのかもしれなかった。

つまり、この研修資料は、まず、ホテル、レストラン、店舗、観光案内所、非常時の対応等各種場面の日本語会話例文をつくってから、これらの例文を簡体字や繁体字中国語に翻訳してもらったというものだった。確かに、翻訳内容から見て、簡体字、繁体字の例文とも中国語母語話者が翻訳したものにはなっていた。しかし、その翻訳が通訳案内士の実用に足る研修資料かどうかという、翻訳以前の問題がそこには存在していた。

もっと言えば、そもそも、実際のホテル、レストラン、店舗、観光案内所等の現場で使われる表現を真剣に考えたことなどなくつくられているのかもしれなかった。研修資料の中にある日本語オリジナルの例文は日本人中心の世界観でつくられたものであって、日本語例文をつくった人は実際のニーズをわかっていたのかどうかは疑わしいものだった。

例えば、日本語例文には、旅館の従業員が接客時に使う言葉として「〇〇(地名)へようこそ」、「私どもの旅館へようこそ」、「お待ちいただきありがとうございます」というのがある。
しかし、これらは一般的にそうそう耳にしない表現である。日本のいろいろなところを旅行し、各地の旅館で大変心のこもったおもてなしを受けて感動したことはあっても、私は旅館でこのようなやりとりを聞いたことはない。
日本語例文をつくった人は、言語表現の程度を区別することなく、このような極端な表現の文も書いてしまっていた。日本語の例文がふさわしくなければ、それに合わせて翻訳された中国語文も当然どうやってもおかしくなってしまう。

ほかにも、例えば、日本語例文には、クレジットカード支払いの例文として、お客さんが「カードでお願いします」と言うと、店員は「もちろんです。カードをお預かりできますか」と答えるというものがある。
しかし、私は日本の店舗で買い物をするときに「もちろんです。カードをお預かりできますか」などという言葉を言われたことがない。ちなみに、私が以前台湾に住んでいたころもまた、台湾の店員が似たような言い回しでお客さんと話をしているのを聞いたことがないのだが。
現実には使わない日本語の例文が中国語に翻訳されるだけでなく、その表現が現地でも聞かれない、大変奇妙な中国語例文も登場するのである。

■ひどい理由2 中日翻訳がひどい

たとえ日本語例文が正確であったとしても、さらにもう一つの翻訳者の技術不足という大きな問題は、当ブログでも何度も紹介しているが、この研修資料にももちろん存在する。
一般的に、日本における翻訳資料の品質が相当ひどいことは、中国語を母語にしている人間であれば薄々でも気づくことである。この研修資料も御多分に漏れず、語学を少し学んだ学生の翻訳練習という翻訳レベルにとどまっている。
つまり、オリジナルの例文の日本語語彙を中国語の語彙に変換し、その変換した語彙を中国語の文として組み立てただけであって、日本語オリジナル例文を「同様の状況下での中国語の一般的な表現方法」に変換したわけではないのである。
その結果、中国語例文は簡体字、繁体字の例文を問わず、確かに文字や語彙が中国語であっても、表現方法には日本語の言い回しが入ってしまっている。

翻訳技術が足りないほか、翻訳者の母語知識も不十分と思われる箇所が散見される。店舗での買い物についての簡単な会話でさえ正確に翻訳できていないのである。
例えば、決済場面での日本語例文の中国語翻訳は現実とは全く違ったものになっている。中国語翻訳をした人は、台湾で買い物をした経験がないのかもしれない。
私が台湾で過ごした学生時代、書店で本を買い、ファストフードでハンバーガーやチキンを買い、コンビニで飲み物を買うときには、店員から「請問您要刷卡還是付現」(カードですか現金ですか)と聞かれていた。業種を問わず、全ての店舗でこのような方法で聞かれていた。学生時代以来、買い物で各業界業種の店員が同じ言い方をするのを聞いてきたため、これがほぼ熟語レベルの「定番表現」と言えるし、台湾人であれば誰でも言える表現である。

研修資料にある日本語部分は無視して、中国語の例文だけを眺めてみても、残念ながら、中国語翻訳者の経験値、あるいは、経験がなかったとしても、中国語翻訳者自身の言葉を知ろうとする意欲の欠如が透けて見えてしまう。
恐らく、自国のホテルに泊まったことがないし、レストランに行ったり店舗で買い物をしたりすることも少なく、サービスカウンターの人がどのようにお客さんと話すかを知らないかもしれない。母国に戻ったにしても、ホテルに泊まったり、レストランで食事をしたりする機会はなく、せいぜい飛行機に乗るぐらいだったのではないか。
航空会社の機内サービスのせりふは非常によい接客表現の例だが、翻訳者はこれらからでさえ自分の母語の接客表現を学んでいないのかもしれない。
だから、訳出した中国語例文が非常に失礼なものになっている箇所がちらほらとあり、現実の中国語圏のホテル、レストラン、店舗、観光案内所等の接客時には到底出てこない文で満ちあふれているのである。

■ひどい理由3 使い勝手への配慮がない

人の知識には限りがあり、全てを知ることはできないから、私が翻訳をするときもいつも悩んでいる。ある日本語を「同様の状況下での中国語の一般的な表現方法」にどのように変換すべきなのかはいつもわからない。ここで諦めないで更にどのような語彙選びをするかを考えて、より利用者に読みやすい表現を模索することが肝心である。
わからなくなったとき、私は台湾にあるネット掲示板の語彙表現情報に当たることにしている。あるいは、台湾の友達にメッセージやメールを送ってやりとりをする。

観光分野を例にとると、台湾に住んでいた20数年前、日本旅行に関するネット掲示板があった。そこに非常に多くの情報が蓄積されている。これらの掲示板には、台湾人が中国語でどのように日本のことを書いているか、中国語でどのように日本旅行の経験を伝えているか、中国語でどのように日本の各種観光施設や商品やサービス等を呼んでいるかがわかる。
これらの掲示板のやりとりから、日本に来る台湾観光客がどのような語彙を使って情報交換するかがわかれば、翻訳をする際、このような観光客が知っている語彙を選んで使うことができる。ただ単に日本語を中国語にするだけでなく、このような情報資源を利用することで、結果的に読み手である観光客により使いやすいものにできる。

一方で、この研修資料の中の中国語翻訳を読んでみると、観光客同士が情報交換する際によく使われる語彙があることは全く考慮されていないことがすぐにわかる。この研修資料を翻訳した人は、ほかの人とやりとりをして事実確認をしていないし、観光客同士の情報交換用の表現の有無の確認もしていないと思われる。翻訳する人がこのような作業に関心がないのならば、翻訳をした内容がたとえ文章として問題はなかったとしても、現実の観光客がなじんだ母語表現とは異なるものとなる。

■まとめ

私が通訳案内士の研修資料としての「中国語テキスト」に期待したいものは、多くのホテル、レストラン、店舗等で使われる、ある程度の接客知識がある人がまとめた日本の接客業の標準的なせりふだが、残念ながら、日本語オリジナル例文は専門知識が一つもない人が自分の想像でつくったものだった。この非現実的な日本語例文を忠実に中国語に翻訳したところで、中国語例文ももちろん問題ありとなる。
しかし、たとえ日本語例文がよかったとしても、中国語翻訳者の訳文を見ていると、母国の接客での言い回しの知識がなく、これらの言い回しに関心もない、観光客が使う実際の言い回しを調べる関心はなく翻訳してしまっていることが見えるので、中身が非常にひどいものになるのは当然と言えるかもしれない。

それにしても、納得できないのは、これらを通訳案内士の研修に関係する団体が制作したということである。このような団体の中には中国語が母語の中国語の通訳案内士がいるはずである。中国語を母語にする人材が研修資料の問題点について何らの指摘をしないのはどうしてなのかということに私は非常に驚いている。
せめて、この研修資料をうのみにして、実際の場面に使用する通訳案内士がいないことを願いたい。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

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