翻訳を通じてわかる母語表現問題

私は今まで、自然な中国語で書かれた翻訳作品に出会ったことがない。このことは「読みにくい中国語翻訳の世界」でも触れた。台湾で、小さいころから大人になるまで、それはたくさんの翻訳作品を読んできた。これらの翻訳作品に共通した特徴は、全てが中国語の語彙であるのに、大部分の文の表現が日常的な中国語ではあり得ないものだったことである。
もしかしたら自然な中国語で書かれた翻訳作品はあるのかもしれない。しかし、私が読んだことのある翻訳小説、雑誌、学術書等にそのような作品はなく、尋常ではない確率でこの不自然さに遭遇していた。

翻訳をした人は中国語母語話者だが、翻訳で使われる中国語は、普通の中国語母語話者が日常で表現する方法とは全く違っている。その根本的な原因は、中国語の翻訳者の母語表現能力が足りないから、自分の母語で「作者が原文で表現したいこと」を適切に再現する能力がないということだと思う。恐らく翻訳者自身は自分の母語表現に問題があること自体をわかっていないのではないだろうか。ちなみに、このような現象は相当ありふれて存在している。

■母語表現能力に無自覚なことは日本で気づいた

中国語母語話者の母語表現能力が足りないことは全然おかしくないことである。母語表現に精通すること自体が本当に容易ではないからである。
普通の人が自分の母語で簡単な意思会話をする分には全く問題はない。しかし、ロジックがあって体系的で複雑な表現をするときに実は問題がある。私が台湾の大学に行っていたころは、今から考えると、私には自分の母語でロジックがあって体系的な表現をする能力はまだなかった。今の自分の母語能力から当時を振り返って、やっとそのような結論が得られている。当時の私には、「母語表現能力が足りない」という自覚は全くなかった。

私が台湾で大学まで勉強し、それでも自分の母語でロジックがあって体系的な表現ができていなかったのは、私個人の問題というわけではない。当時の私の大学の同級生たちの表現能力もさほどかわりはなかった。みんなの表現能力がさほどかわりはなかったので、みんな自分の表現能力に問題があるとは思えなかっただけである。
私が大学で出会った多くの先生の表現能力もよくなかった。当時は母語が日本語か台湾語の先生も何人かいて、母語が中国語ではないから中国語の表現能力がよくないというのは仕方ないこととしてあった。しかし、母語が中国語の先生であっても、中国語の表現能力がいいとは限らなかった。つまり、母語表現能力がよくないことは若者の問題というわけではなかったし、大学で教える知識エリート層の母語表現能力がいいとは限らなかった。

皆の言語表現能力がよくなかった根本原因は、表現能力がよい人に出会う機会が少なく、参考にできるよい手本もなかったことにある。
私の学生時代に出会った中国語表現能力が比較的よい人は、中学校、高校時代の塾講師であった。私が出会った塾講師はたくさんいて、彼らの表現能力が皆よいというわけではなかったが、全体的に塾講師の表現能力の方が学校の先生よりも高かった。ただし、学生の大部分は「教え方がよいかどうか」で相手を評価するはずで、そのとき「言語表現能力」から問題を捉えて、表現能力の手本にするということがあるわけではなかった。
塾講師ぐらいしか該当者が見当たらないというのは、私個人の独特の経歴というより、大部分の台湾人は、日常生活の中で「中国語の表現能力がよい人」に出会う機会はそう多くないということである。よい見本に出会う機会が多くないからこそ、台湾の大学に行っても、私や私の同級生の言語表現能力に差はなかったのである。

中国語の母語話者の母語表現能力が足りない原因の一つは、中国語母語話者が教育を受ける段階で適切な母語表現訓練を受けていないことにある。
私も小中高のときには学校でかなり多くの中国語の語彙を学んだが、語彙をどのように組み合わせて自然な文や文章にするのかを教わったことはなかった。作文教育はあったが、作文教育の多くは、学生に説教めいた人生論や文学っぽい流麗な文章を教えることであって、学生がどのように自然で普通の、正確で読みやすい表現をするのかを教えるのではなかった。

この種の言語表現問題は、私が日本で生活するようになって、どのように日本語を使って日本人と意思疎通を図るかを真剣に考えたり、日本のメディアで「外国人でさえ理解できる日本語表現」が使われているのを見たりして、再度自分の母語表現について振り返って考えるようになり、やっと気づいた事実である。もし、私が日本で生活をしていなければ、自分の母語表現問題をこんなにも深く考えることは一生なかったかもしれない。

■不自然なものをよしとした言語教育の問題

一方で、翻訳についても、言語教育の中でいつしか言語表現の不自然さがむしろ正確なのだと捉えるようになってしまっていた。
私が中学校になると、中国語の古文の学習が始まった。台湾の国語の市販参考書には、教科書に出てくる古文の模範翻訳文がついていた。これらの翻訳は自然な現代中国語で古文の内容を再現していたわけではなく、古文の全ての語彙の解釈の寄せ集めが翻訳文になっていた。学生に古文の表現ロジックを知らせることが狙いであるためである。学校の試験には、古文を現代文に翻訳する問題があったが、それで教師が期待する答案は、参考書と同じで、古文の全ての語彙を解釈できているかどうかだった。このような古文の語彙解釈を無理やり寄せ集めた翻訳文は一つも自然なものがないのは当然なのだが、国語教師は学生に、この種の翻訳文が不自然だとは決して言わなかった。その結果、学生はこれこそ真の翻訳であり、これこそ自然の表現方式だと考えるのである。

そして、中学校になると、英語の学習も始まった。台湾の英語の市販参考書にも、教科書に出てくる英語の翻訳文がついていた。これらの翻訳は教科書の英語のもともとの意味を自然な中国語で再現したのではなく、全ての語彙を中国語に置きかえた後、寄せ集めて文にしたというものであった。学生に英語の表現ロジックを知らせることが狙いであるためである。そして、英語教師は学生に、この種の中国語の翻訳が不自然だとは言わなかった。その結果、学生は、語彙が完全に対応関係を持つ「直訳」こそが正確な翻訳であると考えるのである。

台湾の教師が学生に、古文や英語の模範翻訳文が不自然と言わなかったのは、教師自身が言語表現の本質を考えていなかったからかもしれない。彼らも、彼ら以前の教師や市販の参考書によって学習したにすぎないのだ。その結果、台湾の学生が中高段階で多くの国語や英語の語彙を学んでも、自分の言語の自然な表現方式を学んだということにはならなかったのである。実際に、学校の教師や参考書が提供する古文や英語の模範翻訳文は非常に読みにくいものであった。しかし、学生はこれが自然で正確な母語表現方法だと思い違いをするようになるのである。

■不自然な翻訳文をそのまま大学に持ち込む

私や私の同級生が中高段階で受けたゆがんだ言語表現方法の訓練の弊害は、大学になってからあらわれてきた。
私の大学の専攻で使っていた教科書の大部分はアメリカから輸入した最新のアメリカの大学の教科書、つまり英語だったのだが、課題のレポートを書くときには中国語を使ってもよかった。レポートを書く際には教科書を参考にするため、みんなが書いたレポートには「直訳」テイストの不自然な中国語で満ちあふれることになった。このような現象は、私や私の同級生の間で発生しただけではない。私の先輩が書いたレポート、私の指導教員が書いた中国語の論文でさえ全てこの種の問題があった。

皆がレポートや論文を書く際に使う中国語は非常に不自然で、しかも読みにくいのだが、日常生活でおしゃべりするときには中国語は正常に戻る。つまり、ゆがんだ言語表現方法は最も根本にある母語表現を揺るがすものではなかった。しかし、みんながみんな、ふだん自分の母語表現に問題があると考えているはずもないから、こういう表現のギャップがあったことを全く感じていなかったのは奇妙なことであった。

私は日本に留学して、言語の構造がわかり始めてから、ようやく以前の、台湾での自分の言語表現に大きな問題があったことに気づいた。その後、記事や翻訳をするときにかなり気をつけるようにすることで、やっと以前台湾の学生時代に培った不自然な母語の文章の表現方法が矯正できてきた。

■母語話者の母語表現能力が足りないのは割と普通のこと

中国語母語話者が適切な表現ができないことは、台湾特有の問題というわけではない。香港人や中国人の翻訳作品を読んでいても、類似の不自然な中国語表現問題に突き当たる。台湾に比べて状況がよいわけでもない。香港や中国の言語教育にも台湾と類似の問題があるのかもしれない。
特に中国は、このことに加えて、文化大革命を経て、本来の中国語の自然な表現方法が失われ、多くの言い回しの方法が原始的で粗野なものに戻ったか、官製のぎこちない語彙に改まった。だから、中国語の表現の流暢性や優雅さは、台湾や香港に比べてひどく劣っているという問題もある。
この視点で見ると、日本では、表現が不自然で上品ではないような異常な中国語が多数採用された情報表示ばかりを目にするようになっているということであるが、ここまで正直には誰も言えないので、日本人が思っている以上に価値が低いものはそのまま放置されている。
さらに、母語話者が適切に自分の母語を使って翻訳ができているわけではないことは、何も中国語圏のみのことではなく、日本でもそうである。私が留学生だったころにも、翻訳がひどい日本語の学術書を幾つか読んだことがあった。翻訳した日本人は明らかに自分の母語で、作者が原文で表現したい意思を再現することをしていなかった。これらは私が台湾で体験してきたことと類似のことだと思う。

■翻訳で遭遇する原文をつくる人の母語問題

そして、私が現在遭遇しているのは、日本語を母語とする日本人の日本語表現問題である。翻訳するべきものとして渡される日本語原稿(主に観光情報)の内容が大分ひどい。書き手が原稿の使用目的や読者のニーズを考えず、読みやすく書いていない。はっきりしないのでどうとでも解釈できてしまう。日本人自身ももちろん、日常生活でおしゃべりする分には問題がないのかもしれないが、それを超えて、自分たちの母語でロジックがあって体系的な表現をする能力は足りないということかもしれない。
これらは大半が自治体職員や民間企業の社員が書いたものであり、このような身分であっても適切に自分の母語を使っているとは限らない。私がこれまで遭遇した多くの日本語原稿から、日本の自治体職員や企業の社員の中には、かなりの割合で適切に自分の母語を使えない人がいると思う。あるいは、文章を書くことが得意ではないにもかかわらず、文章を書く部署に配属されて書かざるを得なくなっている、つまり、日本の自治体や企業では、専門知識を持つ人を適材適所で人材活用をしていない結果なのかもしれない。
いずれにせよ、これらのかなりひどい日本語原稿を受け取って翻訳するということは、少なくともこれらの原稿は組織内部のチェックを通過したということであり、チェックする人自身も日本語原稿の内容の問題を見分けることができていないのかもしれない。

現在日本政府は観光立国を推進し、中国語の情報が世の中にあふれているように目に映るが、ネーティブから見て少しも価値が高いものができ上がってこない。その原因の一つに、文章をつくり翻訳する人たちの母語表現能力の問題がある。これは中国語翻訳者の母語表現能力の問題だけでなく、実は日本語原稿の段階で問題があることが翻訳結果に大きな影響を与えていることも間違いなくある。質の悪い日本語原稿で質の悪い翻訳がされてしまえば、その結果の品質が相当ひどいものになることは容易に想像できるだろう。そろそろ品質の悪い翻訳は排除し、より母語表現能力のために努力した人が担う、より品質の高い翻訳資料がふえていくことを願ってやまない。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

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