読みにくい中国語翻訳の世界

私が留学した日本の大学には留学生向けの日本語の授業があり、「翻訳」がテーマだったことがあった。この「翻訳」とは、翻訳のやり方を学ぶのではなく、「翻訳のやり方を語る」文章を読むということである。
翻訳には「原文尊重主義」と「訳文尊重主義」という概念があり、オリジナルが表現する要素と翻訳文の流暢性の間でいかにバランスをとるかを考えさせるというものだった。

教師はクラスの学生に、あなたの国の翻訳は、オリジナル表現を重視する構造か、それとも翻訳文を重視する構造かと質問を投げかけた。
それに対して、ある中国から来た留学生は、中国の翻訳はオリジナル表現を重視して、かつ、時間をかけて流暢な中国語に修正していると答えた。
教師はそれを聞いてすごく驚いていた。このような翻訳方法は理想的だからである。
そして私も、これには大変驚いた。私は中国語の翻訳をたくさん見てきたが、その実情は、この中国から来た留学生が話したものとは明らかに異なるからである。だから、その中国から来た留学生は、本人が思う翻訳の理想状態を現実のものと勘違いして答えているのかもしれないと思った。

■活字の翻訳書が読みにくいのは大人ならわかる表現で書かれているから?

私は小さいころから台湾で翻訳書をたくさん読んできた。私が生まれて初めて見た漫画「ドラえもん」も翻訳書である。当時の私はまだ小学校に上がっておらず、「ドラえもん」が翻訳書であることも知らなかった。
私の母は、私が漫画を読むことを喜ばなかった。私が小学校に上がった後は、母は一貫して私に「純粋な」活字の本を読ませた。母から紹介される本はどれも翻訳書であり、それはとても読みたくないものだった。
最初は字が読めなかったこともあり、活字の本を読むのが好きではなかった。しかし、ある程度字を読めるようになった後でも、私はやっぱり活字を読むのが好きではなかった。それは、これらの本がとても読みにくいと感じたからである。

私が活字の本を読むのが嫌いであっても、やはり「読まざるを得ない」ときはあった。私の家では、週末になると祖母の家に行って食事をする。祖母の家には児童の娯楽になるものは何もないし、家にいる大人は皆子供に関心がないから、本を読んで現実逃避するしかないのだ。当時、祖母の家で定期購読していた中国語版の「リーダーズダイジェスト」を格好の現実逃避の道具にしていた。
しかし、その「リーダーズダイジェスト」はとても読みにくい雑誌だった。文章表現はどれもとても奇妙で、私がふだん見聞きする中国語の表現方式と全く違っていた。当時の私は、大人が文章を書くときにはこういう奇妙なルールがあり、だから、書かれている文章はこんなにも不自然なんだと思っていた。

活字の本のテーマが魅力的であれば、やはり読みたいものはあった。台湾で「ET」や「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」が上映されたとき、私は映画館に行くことはなかったが、父親がこの映画の翻訳小説を何とか手に入れてくれていた。
小学生の私がこの2冊の小説を読み終えるのは簡単ではなかったし、読み終えたものの、内容を理解していなかった。小説の中の文の書き方が奇妙であるのに、身近な大人は私に、なぜこれらの文章がこんなに奇妙かという話をしなかった。だから、私は私なりに、大人が小説を書くときには奇妙な表現様式をとらないといけないのだと解釈していた。

中学、高校に進学した後も、折に触れて翻訳された外国の小説を読むことはあった。そのとき読んだものは「シャーロック・ホームズの冒険」や「怪盗紳士ルパン」などの翻訳書である。この段階では、私の文章理解力も以前よりもよくなっていたから、翻訳書の内容は理解できた。しかし、やはり読みにくさを感じていた。
当時の私は、このような読みにくい文章は「特殊な文学表現技術」があるのだと思っていた。そして、私自身に文章を読む経験が足りない、このような文学表現構造に適応できていないから、読みにくいと感じるのだろうと思っていた。

■大学生になっても読めない翻訳書に自分の知識不足を疑う

私が行った台湾の大学では、アメリカの最新の大学の教科書をそのまま教科書として使っていた。高校の英語の成績がよくなかった私にしてみれば、これはとても大きな負担だった。だから、書店で共通のテーマの中国語版の大学の教科書を探して何とかするしかなかったのだが、私が見つける中国語版の大学の教科書はどれも読みにくかった。
当時の私は、自分の知識が足りないから、大学の教科書は読みにくいのだと思っていた。これら中国語版の大学の教科書は、全て翻訳書だった。私の大学生活の前半において中国語版の大学の教科書をたくさん見つけたが、どの翻訳の教科書も大変読みにくかった。例外はなかった。

台湾の大学で最終学年になったころ、書店で私の専攻に関連する中国語に翻訳された教科書を見つけ、とても喜んで買ったものだった。しかし、読みにくいので、読もうにも読み進められない。この本は中国の幾つかの大学が協力して翻訳した専門書であり、台湾の出版社が繁体字版をつくり台湾で販売したものだった。私がそのときわかったことは、中国人が翻訳した本もこんなにも読みにくいということだった。

こうして大学を卒業して数年後、日本に留学した。日本の大学に入る前には、台湾の書店で私の専攻に関連する分野の学術書(翻訳書)を見つけ、参考にするために日本に持ってきていた。これらの本の中には、台湾人が翻訳したものも、中国人が翻訳したものを出版社が台湾の繁体字版にしたものもあった。そして、私はこれらの翻訳書を読むのに何度も挫折していた。これらの本がとても読みにくいからである。当時の私は、それでもやはり、自分の知識が足りないから読みにくいのだと思っていた。

読みにくいのは学術書だけではなかった。大学時代のあるとき、SF好きの友人が、「攻殻機動隊」という翻訳漫画を勧めてきた。私は漫画を読むのが好きだが、最初の2ページで読んでいられなくなった。内容が本当にわからないからだ。時間をかけて最初2ページの内容を分析してみたが、どうやって読んでも意味を理解できなかった。当時の私は、「攻殻機動隊」で語られる知識は深過ぎるので、内容が理解できないのだと思っていた。

■翻訳書が読みにくい根本原因がわかった

私が日本の学校で勉強して半ばが過ぎたころ、違う言語での表現構造の違いを理解し始め、ようやく、私が以前読んだ中国語の翻訳書がなぜこんなにも読みにくいのかということがわかった。

根本原因は、翻訳者の母語表現能力が弱く、翻訳文を正常な文にしていなかったことにある。これらの翻訳者は、実はオリジナルの意味を確実には理解していないし、オリジナルの作者が伝えたい内容を自分の母語でどのように再現するかも真剣に考えてはいなかったのだ。

これまで読んできた翻訳書の翻訳者は、ただ辞書に書かれた解釈をもとにして、オリジナルの語彙を中国語に改め、その後、何とかしてこれらの語彙を一言一句漏らさないようにして文を組み立てたというだけだったのだ。だから、例えば、もしオリジナルの文で形容詞を3つ使われていたら、翻訳された中国語の文にも必ず形容詞が3つ入ることになる。
翻訳者は辞書の解釈をもとにして語彙を変えただけであって、言語表現の違いを全く考慮していないので、翻訳された文は本質的には「辞書中の一般的な解釈」の集合体にすぎないものとなる。結局、翻訳文の中での語彙は中国語だが、これらの語彙で構成する文は非常に不自然であり、文の表現する順序も非常に不自然になる。だから、読みにくいのである。
そもそも、中国語を母語にする人が話をするとき、翻訳文で使っているような表現をすることはあり得ない。しかし、私が以前読んでいた「リーダーズダイジェスト」雑誌の翻訳文、各種翻訳小説、翻訳された大学の教科書等、翻訳書の全てがこうだった。
つまり、これが中国語の翻訳の真実なのである。

これまでは、私の言語知識が足りないから、小説や学術書には特別の表現ルールがあると思っていたから、読むのが難しいと思っていた。しかし、英語や日本語の表現構造がわかった後、私はこのような奇妙の翻訳文を見て、オリジナルの文章を想像できるようになっていた。これらの翻訳文はオリジナルの表現構造を本当にほとんど保持しているからだ。
私は日本で日本語版の「攻殻機動隊」の漫画を読み、最初の2ページの内容に何らの難しいことがないことがやっとわかった。以前、台湾で翻訳版がわからなかった原因は、以前の台湾の翻訳がひど過ぎただけだった。

■外国語が得意ではなく、修行のための翻訳

翻訳はある言語の情報を別の言語に変換することである。情報が発達していない時代においては、外国語の知識がない人は翻訳書を読むことで外国の知識を得ていた。過去の人たちからすれば、外国語を翻訳する人は知識エリートだから、翻訳文がどれほど奇妙でも、翻訳内容を疑う人はいなかった。
翻訳に従事する人は,確かに普通の人より外国語の知識を持っていて、外国語の勉強に情熱を持っているかもしれないが、それは外国語に精通しているとは限らない。
現実には、中国語の翻訳書の多くは、本物の翻訳家による翻訳ではなく、アルバイトの学生による翻訳である。外国語が得意だから翻訳するというわけではなく、「翻訳という修行」によって中途半端な外国語能力を向上させたくて、過去同じようなバイトをした先輩から翻訳のバイトのチャンスを紹介されたというのが実態である。翻訳ができる人は知識エリートだというのはただの幻想にすぎない。

私が以前読んだ中国語版の大学の教科書も、実はほとんどがアルバイトの学生の翻訳の「習作」だった。学生は母語も外国語能力も未熟で、専門的知識も足りないし、その結果、翻訳の品質も非常にひどいものになる。しかも、わからない部分があっても事実確認もしないので、適当に仕上げて納品してしまう。
雑誌や小説では、比較的専門性のある翻訳者が翻訳するかもしれないが、私が読んだことがある翻訳小説の翻訳の質はどれもひどく、明らかに母語の表現技術がよくなかった。
もっと言えば、中国語の翻訳は台湾、香港、中国に共通する問題なので、以前の香港で翻訳されていた「リーダーズダイジェスト」の文章も、品質は非常にひどいのである。

■翻訳者の母語能力が低過ぎるのは変わらず

情報が発達した現在においても粗悪な中国語翻訳は依然として存在するし、しかも多数を占める。これらの粗悪な翻訳の特徴は、私が小さいころに読んだ翻訳書と同じで、語彙の全てが中国語の語彙だけれども、表現方式が完全に中国語の表現方式ではない。つまり、粗悪な中国語翻訳はやはり数十年前と共通する誤りをし続けていて、全く変わっていない。

最も典型的な例は中国語版のウィキペディアである。中国語版のウィキペディアの多くは他の言語版から翻訳したもので、実質的に翻訳の練習プラットフォームになっている。ウィキペディアの翻訳をする人は、台湾人は少数で、大多数は中国以外に住む中国人である。ただし、台湾人の翻訳であろうと、中国人の翻訳であろうと、翻訳ミスの傾向はほぼ全部同じである。翻訳者の母語能力の弱さと、そのことに全く自覚がないということが根本原因であることも何ら変わらない。

母語の表現能力は何もやらずに自然によくなるはずはないので、時間や努力をつぎ込まなければならない。そして、どんな場合にどんな語彙を使うか、適切な表現をどのようにするかを考え続けることで進歩する。もし自身の母語に関心がなければ、母語で書く翻訳文の品質が当然よいはずがない。
今、日本で中国語の翻訳を見ていても、多くの翻訳文は母語の表現能力がこなれていないという問題があり、しかも、誰が読むものかを考えずに翻訳者が翻訳しているという問題もある。

■読み手に届く言語表現への関心が低過ぎる

私が台湾繁体字と中国簡体字版の翻訳の仕事を同時に持っているときは、台湾と中国の言い回しや表現の違いに留意して翻訳するし、繁体字版の翻訳では、台湾人がなれている語彙や表現方式を使い、簡体字版の翻訳では、中国人がなれている語彙や表現方式を使う。
台湾人は通常、台湾と中国で使用している語彙や表現方式の違いが大きいことを知っている。台湾人が中国人と会話するとき、基本的には言い回しや表現の違いの問題を留意している。しかし、私が日本で会ったことがある中国人は、台湾と中国との文字の違いは知っていても、語彙や表現上の違いに関心がないし、台湾人が会話するときに留意すべき表現に関心はない。台湾人がなぜこの語彙を使い、このような表現をしているのかという発想はないのではないか。

以前、自治体から台湾人向けの繁体字版文書の翻訳案件を受けたとき、翻訳原稿をチェックする中国人の臨時職員は、私が台湾人向けに翻訳した言い回し表現を、中国人だけが使う表現へと勝手に改め、私が使っている正確で誤りのない繁体字を中国の簡体字に改めることさえしていた。
このことは驚くべきことだが、珍しいことではない。この臨時職員に限らず、正確な言語知識がなく、事実確認もしていないことは明らかで、言語や翻訳に対して余りに無関心という例は多い。このような人に翻訳のチェックをさせて完成する自治体資料の品質はよいはずがないのだが、この現実を伝えることが困難であることは、「中華圏の多様性を破壊する日本の自治体職員の無知――その中国語母語職員は繁体字情報を破壊していませんか」でも言及した。

私が日本の大学を卒業して既に十年以上たった。
翻訳文の読みにくさの原因については私なりに理解できるようになったものの、読みにくい翻訳文をつくる翻訳者自身の問題は以前と変わらないし、読みにくい翻訳はこれまで以上に生産され続けている。
あのとき、あの日本語の授業で、あの中国から来た留学生が言っていた、中国の「オリジナル表現を重視して、しかも時間をかけて流暢な中国語に修正している」という状況は、現在でも、現実にはなっていない幻想でしかすぎないのではないかと私は思っている。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

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