言葉遊びをオヤジギャクと否定する日本文化

台湾で『ドラゴンボール』の翻訳版を読んでいたころ、悟空が界王のもとで修行するシーンに入って、登場人物が何を言いたいのかわからないところがあった。

その内容はというと、界王が悟空の目の前で「誰も電話に出ない」と独り言を言い、自分のジョークのできを自慢し、悟空には自分を笑わせられる冗談を言わないと修行をさせないというものだった。悟空は「布団が飛んだ」と言い、界王を笑わせたのである。【注1】

当時の私は、このやりとりの意味が全くわからなかった。

翻訳作品を読んでいて、理解できない翻訳の内容を見たら、普通は自分の妄想で補うしかない。当時、私が思ったのは、界王のユーモアのセンスは変で、悟空のユーモアのセンスも変だから、両者は変なユーモアでも通じ合えたのだということだった。

日本語を勉強して数年たってから、やっとこの冗談の意味がわかった。
すなわち、「誰も電話に出ない」とは、「(誰も)電話にでんわ」であり、「デンワ」の音遊びをしているのである。「布団が飛んだ」とは、「フトンがふっとんだ」であり、「フト(ッ)ン」の音遊びをしているのである。あの翻訳は、こういう日本語表現を再現していなかったのだ。
「電話にでんわ」や「フトンがふっとんだ」のような日本語表現は、もともと偶発的な結果が冗談になったものである。他の言語に翻訳すると、このような偶発性はなくなってしまう。
私が読んでいた翻訳は、字面を文字どおり翻訳したにすぎなかった。そして、翻訳された内容は、もちろん日本語オリジナルの発音の特徴を持ち合わせていない。だから、翻訳版の漫画を読んでも、このやりとりは理解できないのである。

私が初めて翻訳版の漫画を読んでから原作中のやりとりを理解するまでには、10年以上の時間があいた。さらに、私がこのやりとりの意味が理解できるようになってからまた何年もたち、ようやく、この種の、同じ音や似通った音の語彙を文章中に使っておもしろみのある言葉遊びをすることを日本人は「おやじギャグ」とか「ダジャレ」と言うことがわかった。

■言葉遊びの大衆化 実は歴史は意外に浅い

中国語では、言語表現の中に出てくる同音又は類似音の現象は「諧音」と呼ばれる。中国語におけるこの諧音による言葉遊びには、日本語でいうところの「おやじギャグ」とか「ダジャレ」のような決まった呼び方はない。「諧音遊戲」とか「諧音笑話」などの造語で、この種の行為や状態を説明するしかない。

中国語にこの種の固定的な呼び方はないのは、この種の言葉遊びの「大衆化」の歴史が長くないからかもしれない。
言葉遊びの基本は言葉に対する感性だから、華人世界での教育がそれほど普及していなかったころは、言葉遊びはごくわずかな知識層の娯楽にすぎなかった。
私が小さかったころには既に台湾で教育が普及していたが、時あたかも独裁政権下である、大衆は為政者が決めた「道徳儀礼」を守らなければならなかった。言語表現について注意深さが足りなければ、殺されかねないことも起こり得た。
大人が言葉遊びをするのを聞くことは少なかったが、全くなかったわけでもなかった。例えば、何かを確認するときに「真的?」(「蒸的?」と同じ発音)と尋ねると、相手が「煮的」と答えていたのを聞いたことがある。【注2】

当時は、実はこういうやりとりに余りいいイメージを持たなかった。確認を求めている相手は内心不安に思っているのでは、真面目に答えなければ、相手は余計に不安になるだろうと思っていた。

小さいころ見た諧音による言葉遊びのやり方は、コミュニケーションとして意地悪過ぎるとは思ったが、一方で、学校で習う新しい言葉の中にある、読み方が同じか似通っている語彙に興味を持つようになったのは確かだ。
長じて大学に行ってからは、台湾社会が言論や表現について開放的になっていたこともあり、クラスには、日常的な会話の中に言葉遊びを入れるのが好きな同級生が何人もいた。もちろん、これは諧音を使った言葉遊びである。私の専攻は理系だったのに、これらの言葉遊びが好きな同級生は芸術や文学の感性も持ち合わせ、独創的なキャラクターだった。これらの同級生が私に少なからぬ刺激を与え、私も、言葉を斬新で巧妙に表現することに興味を持った。

現在の台湾では、諧音による言葉遊びはかなり大衆化している。商店、飲食店、商品の名前にも諧音が使われている。これらの諧音を使った名前には、上品でないもの、低俗なものもあるが、多くは大変斬新で巧妙でおもしろい。どれも、店名や商品名を見て記憶にとどめてもらえるようにすることが目的だ。表現がそれほど極端なものでなければ、人々は寛容な態度でそれを見ている。

■日本の「ダジャレ」に向けられる差別的な扱い

私は、来日したばかりのころ、日本語学校に1年半通った。
最初の半年は初級日本語で、テキストを進めていくと短文をつくる練習が入ってくる。私は習ったことがある日本語の語彙を使って、独創的な文づくりに励んだ。
あるとき、授業で短文をつくるときに、日本語の類似音の語彙を使った。クラスの同級生は笑った。日本語教師も笑ったが、その後すぐに、大きな声で「おじさん」と私に言った。

当時の私でも、日本語の「おじさん」の意味は知っていたが、その日本語教師がなぜ私に「おじさん」と言ったのかはわからなかった。恐らくそのとき、クラスの外国人留学生のみんなも、その日本語教師がなぜ「おじさん」と言ったかはわからなかったと思う。とはいえ、日本語教師が笑っている様子からは、悪意はないが、決して私を褒めたのでもないことはわかったのではないか。

後々になって、私は、あの日本語教師が「おじさん」と言って冷やかした意味がわかった。当時、日本語初級の学生には「おやじギャグ」という言葉は通じないだろうから、「おじさん」と言ったのである。この真実にたどり着いたとき、とてもショックだった。
あの日本語教師には悪意がなかったと信じてはいる、彼女は「おやじギャグ」が好きではなく、私のように、日本に来てから半年もたっていない、日本語が初級レベルの外国人に対して、反射的にうっかり言っただけかもしれない。

多くの日本人は諧音による言葉遊びを嫌っているようで、「おやじギャグ」とか「ダジャレ」とこの言葉遊びのことを呼んでいる。この種の呼び名からは、日本人が心の奥底では「おやじ」を疎ましく、差別さえしていることも垣間見られる。

日本に住む外国人の立場としていえば、努力して日本語を勉強することは、その国や社会や文化を尊重する行為だと考えているし、努力して日本語をマスターしたいとも思う。しかし、この種の抑圧的な言語表現の文化に適応することは容易ではない。
日本語に興味を持つ人は日本語のいろいろな表現の可能性を探すのは当然だと思うが、同時に、この言語表現を試すことは、冷ややかなあざけりに遭遇するリスクがある行為でもあるのだ。このことに大きな矛盾はないだろうか。

私は日本に住んでから10年以上たった今でも、日本人が「おやじギャグ」という言葉を使うのを聞くと悲しくなってくる。日本語学校でのあの経験は、本当によくない経験だった。
このような心のもやもやを克服するには、デーブ・スペクターのツイートを見るといいのかもしれない。彼のツイートには独創的な日本語の言葉遊びがたくさんある。しかも、彼は「おじさん」と言われることを恐れない。彼のような存在こそ、ただただ日本語をマスターしたいと思う外国人にはとてもいい刺激になっている。

【注1】当時読んだ漫画は繁体字中国語のもので、純粋に「誰も電話に出ない」と「布団が飛んだ」などの「意味」としか認識できなかった。
【注2】「真的?」は「本当?」という意味。「蒸的?」は「蒸したもの?」という意味。「煮的」は「茹でたもの」という意味で、「本当?」という確認を無視して料理のことに話題をそらした意地悪な答え方をしている。

(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)

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