――その中国語母語職員は繁体字情報を破壊していませんか
多文化共生の時代、日本の公共施設の多くが外国人サービスのために外国語情報を増やしている。地方自治体が外国語母語職員を採用し外国籍住民向けサービスを行うことは少なくない。
自治体が外国語母語職員を採用するのは、外国籍住民の中には日本語がわからない人がいるし、自治体職員の中にも外国語がわからない人が多数いるからだ。東京23区では、外国人が人口全体の1割を超える区も珍しくなくなっている。双方向コミュニケーションがスムーズにできなければ自治体の住民サービスの質に影響しかねないことから、外国語母語職員は自治体と外国籍住民の意思疎通のパイプ役を担う。
■仲介はできても母語力があるわけではない
パイプ役といっても、外国語母語職員の語学スキルを過大評価してはいけない。通常の外国語母語職員ができるのは、相互の意思疎通を助けるのみである。
にもかかわらず、一部自治体では、外国語母語職員の知識能力を超えること、しかも日本人職員が内容をチェック、監督できない業務をさせている。例えば、自治体文書の外国語版制作、自治体から委託された翻訳業者が翻訳した翻訳資料のチェック等である。
私は日本語から外国語版の制作を専門性に欠ける外国語母語職員に当たり前のようにさせ、その後何の監督、ダブルチェックの枠組みも持たないことを不思議に思っている。日本の公的機関であれば、外国語から日本語の翻訳文の作成やチェックには専門的な知識を持つ人を充てるのであって、適当に済ませることはあり得ないだろう。
私は台湾人なので、外国語母語職員の中でも中国語母語職員との接点がある。私は中国語母語職員のつくった中国語の文を見て、そのいまいちさをダイレクトに受けとめている。そもそも読解能力がよくないから、勘違いや思い込みからミスが出ているし、母語での複雑で正確な文章づくりの経験もなく、翻訳や校正編集の業務知識もないと思われる内容のこともある。
日本人職員は外国語母語職員の文書作成能力を過大評価し過ぎている。専門知識のない人に文書をつくらせることで、自治体文書の信頼性や、自治体のイメージに影響を与える可能性があると考えないのだろうか。
非常に残念なことだが、課題を持つ人ほど、自分の母語能力に異常に自信を持っている。たとえ自信がなくても、日本人のような謙遜さなど出すはずもない。日本人職員の手前もあるのだろうか、問題点を指摘されても自分のミスを認めようとはしない。しかも、日本人職員はそんな外国語母語職員を信頼してか、ダブルチェックをしようとしない。その結果の成果物が自治体の外国人向けサービスとして提供されるのである。
■ああ中国人は簡体字中国語しか知らないんだ!
私が自治体向けの仕事で台湾人向けの繁体字版情報の翻訳をするとき、自治体は私の翻訳文を中国語母語職員に「校正」させる。その後、戻ってこないこともあるが、戻ってくれば、その校正原稿に従って再度の修正作業を行うことになる。
このフィードバックでわかることは、翻訳のチェックにかかわっている人ほぼ全て中国出身者だと想像できることである。なぜなら、台湾人向けに工夫してつくった語彙や文が、台湾人が通常使わない語彙や文に変えられてしまっているからである。
このようなフィードバックが繰り返されて、中国出身の中国語母語職員は、多くは中国以外の中華圏で使われる華語(中国語)の言い回しを知らないのではないかと確信するようになった。つまり、中国出身の中国語母語職員には、「中国語の文字には簡体字と繁体字がある」という程度は何となくわかっていても、「簡体字圏と繁体字圏の言葉の言い回しの違いは大きい」という概念がないということである。
だから、自治体の日本人職員に伝えたいのは、「あなたの自治体の中国語母語職員は中国以外の華語(中国語)の言い回しの習慣を知らないですよ」「繁体字の語彙や文章の専門知識がなさそうですよ」ということである。
日本人の中では、簡体字と繁体字の違いは漢字の字体の差程度にしか考えていないかもしれないが、少なくとも母語話者にとっては全く違うものであるので、この文章を機に認識を改めていただきたいと思う。台湾で使用する繁体字の字体や漢字数は中国の簡体字よりも複雑多様であり、言い回しの習慣もかなり違う。たかが数文字の間違いでも致命的であることは、日本人が「てにをは」がおかしいだけでざわつくのと同じである。
中国語母語話者が中国語の文章をチェックすることは、日本人職員にとっては一見合理的に見えるのだろうが、簡体字圏の人が繁体字圏の人の文章を直してしまうと、繁体字圏の人に恥ずかしくて見せられないひどいものになる。まして、今取り上げているのは、外国人向けの自治体サービスについてのことである。
(注釈)
・簡体字は、主に中華人民共和国で使われている中国語の字遣い。日本の漢字よりも簡略化されている漢字もある。
・繁体字は、主に台湾、香港で使われている中国語の字遣い。日本の漢字よりも複雑で、旧字体に近い。
・華語は、中華人民共和国「以外」で使われている中国語の意味で、最近使われるようになった。詳細は「日本の「中国語」の排他性から脱却し、あえて台湾華語と呼んでみる」参照。
■中国人が繁体字知識をつけられない残念な理由
中国出身の中国語母語職員が簡体字しか知らないのは、中国の情報統制がかなり厳しく、中国人が中国で中国以外の情報に接することが難しくなっていることの影響か、あるいは、中国は人口や面積が大きな国だから、周縁の小さいエリアも自分たちと同じだろうと思い込み、中華圏を包摂的に考えてしまうからなのだろう。
そして、中国出身者は、来日後も使いなれたウェブアプリやツールで情報をとる。つまり、日常生活において簡体字の情報を見ているのであって、繁体字の情報に接する必要はない。だから、本当に繁体字を使う人が作成した繁体字情報を見分ける能力などないと私は結論づけている。
一方で、努力さえすれば、中国人でもネット上で繁体字や繁体字圏の言い回しや伝え方を学ぶことも可能だと思う人もいるかもしれない。確かに、2010年代の初頭は、このような考え方が何とか通用していた。しかし、今はもうほぼ不可能だと感じる。それは、フェイク情報の氾濫による。
2010年代以降、「偽繁体字」サイトがどんどん増え始め、2010年代後半には、とうとう本当の繁体字圏の人がつくったネット情報を探すことが非常に困難になるほどまでに深刻化し、現在も悪化の一途をたどっている。
これらフェイク情報の大半は、繁体字を使用する台湾人が作成したものではなく、日ごろ繁体字を使わない中国人が作成したものである。日本人はもちろん、大部分の中国人ももちろんこのような現実を知らないだろう。被害を受けている繁体字圏の台湾人と香港人だけが繁体字資料を調べる不便さを感じているのである。
ちなみに、日本人が好きなグーグルだが、グーグル上で繁体字圏の人が作成した情報を探すことは既に困難になっている。ウィキペディアも同様だが、このことは別の機会に言及したい。
なお、台湾では、高齢者以外のネットを使いこなす多くの人は、これら「偽繁体字」の情報を簡単に見分けられる。これらの情報の中には台湾人が使わない伝え方があり、台湾人が文章を書くときには起こり得ない誤字があるからである。
フェイク情報が蔓延する2010年代半ば以降、台湾人がネット情報を調べていて、過って中国人が作成する「偽繁体字」サイトに入ってしまうということが増え、図らずも台湾人が中国人の言い回しの習慣を知る羽目になってしまった。
中国がつくった大量の粗悪なフェイク情報により台湾人のネット情報生活が脅かされ、深刻化したため、現在、台湾人の多くが簡体字や中国の言い回しを非常に毛嫌いしている。
■繁体字翻訳を破壊する無自覚な「改悪」例
簡体字のみに精通し繁体字圏の言語文化知識を持たない中国出身の中国語母語職員が翻訳をチェックすれば、その質は「偽繁体字」のサイトと同様になるとも言える。それはどういうことか。
私が遭遇したことのある主な「改悪」例を紹介したい。
・一部だけを中途半端に直すなど、訳語の一貫性が欠如する直し方をする。
・正しい繁体字を誤字とみなして、簡体字に直す。
・本当の繁体字の誤字を見落とす。
・上品な言い回しを、粗野な言い回しに直す。
・厳密性のある語彙表現を、曖昧な語彙表現に直す。
・安定して穏やかな文章表現を、不安定で荒い話し言葉に直す。
・台湾人がよく使う語彙や文を、中国人だけが使う語彙や文に直す。
・読み手(台湾人)の知識や情報調査能力を過小評価する。(台湾に根差した日本についての常識を知らない)
・台湾人にとって不必要な説明を勝手に追加して自分の知識をひけらかし、翻訳文中で丁寧につくり上げた読み手の好奇心を誘発する仕掛けを破壊する。
もちろん、冒頭で触れたように、経験や知識が足りないために、読み手の不利益となる「改悪」もある。
・固有名詞やシンボルマーク(例えば商標中の文字)を言葉として翻訳する。
・よくよく工夫して考えた中国語翻訳文の語彙順序を、日本語原文の語彙順序に直す。(流ちょうな翻訳を粗悪な直訳に直す)
・よくよく工夫して考えた中国語翻訳文の文の順序を、日本語原文の文の順序に直す。(流ちょうな翻訳を粗悪な直訳に直す)
・直しのための直しをする。日本人職員に自分が仕事をしていることを見せたいがために、本来は直しが必要ではない部分で無意味な加筆をする。
■日本人職員よ、露骨なことを言わせる前に気づいてくれよ
「改悪」の結果、努力してつくった本当の繁体字の翻訳文が、中国出身の中国語母語職員に踏みにじられてしまう。このような問題を私自身は幾度となく経験している。台湾人向けの翻訳をしているのに、そのフィードバックには繁体字圏の人間なら通常使わない語彙が使われ、中国人だけが持つ言い回しの習慣、つまり読み手となる台湾人が毛嫌いする表現が充満する。
「校正」のつもりで「改悪」している中国出身の中国語母語職員に、あなたの指摘は当たらない、これは合っていると一々言わなければならないストレスは大きい。彼らはこのことに無知なのだから、単なる自分へのやっかみや攻撃と捉えることもあり、素直に受けとめてはくれないこともある。しかし、このままでは、せっかくつくったものが偽繁体字のフェイク情報だとみなされてしまう、それは、読み手である台湾人が不愉快に感じるだけでなく、情報の信頼性を失墜させることだから、こちらとしても安易に妥協などできない。
心中とてもつらいものがあるが、もっとつらいのは日本人職員が、「繁体字圏の言語知識が乏しい中国出身の中国語母語職員が、台湾人が翻訳した本当の繁体字資料を校正する」ことが不合理で異常な作業方法だと気づかず、やっぱり身近な人の方を信じることである。
大変ややこしいことになっていることに日本人職員は気づいているのだろうか。私も、中国出身の中国語母語職員にメンツがあることは承知しているから、仮に指摘すると反発を受けることになる。だから、結局、日本人職員に言わなければならなくなる。ただし、私はここに書いているような中華圏の見苦しい話は日本人にしないし、忙しい自治体職員に対してこんな話をするのは時間的に難しい。字句の話にとどめると、前述のように、無知な日本人職員は中国出身の外国語母語職員を信じるので、繁体字版資料は台なしになる。
かといって、たとえ日本人職員が私の指摘を受け入れてくれたとして、私の懸案は解決しその繁体字版資料はいいものになるだろうが、中国出身の中国語母語職員のメンツがなくなってしまう。今後の彼らとのつき合いに大いに影響が出てくる。何しろ、彼らは「職員」なんだから、自分のメンツを汚した存在とつき合いたいと誰が思うだろうか。日本人職員が気づかないうちに、結果的に、今後の繁体字版資料づくりに影響を与える事態となる。
■中国母語職員が中国出身者であることの不気味
中国出身の中国語母語職員は簡体字圏の中国語のみを知る人材であって、繁体字については自治体に適切に助言しないし、事実できない。
したがって、中国出身の中国語母語職員に中国語情報の全体プランを任せるということは、彼らの繁体字への無関心がそのまま自治体の方針と直結し、繁体字の公共表示や資料など作成されようもなくなるか、優先度を落とされかねないということである。結果的に、繁体字の存在は非常に巧妙に抹殺されてしまう。
このことは、繁体字圏の人の立場に立てば、中国出身の中国語母語職員は職業上有利な立場を利用して不作為を行っているということであり、更に日本人職員の不勉強が加わり、まさに自治体業務の公正性、多文化共生時代に逆行した対応を取っているということである。
自治体としての外国語人材募集の結果とはいえ、外国人サービスの場にいるのが繁体字圏のことを知らない中国出身の中国語母語職員であって、彼らが自治体側の地位を占めていることはすごく不気味である。繁体字圏の人は簡体字圏の人が自分たちに利益があるように情報操作をするのではないかと警戒感を持たざるを得ない。なぜなら、とばっちりを受けるのは、真に繁体字情報を利用する台湾人と香港人だからである。
例えば、旅行していても、簡体字の表示や資料しかなく、繁体字のものがない自治体も少なくない。つまり、この自治体が台湾人や香港人を歓迎しておらず、中国人だけを歓迎していることを結果的に示している。そして、自治体がつくった繁体字情報があったとしても、簡体字混じりの「偽繁体字」情報を渡される。その翻訳のチェックに繁体字圏の人が入っていない証拠である。
日本人は台湾のことを親日と言うこともあって、日本人としても台湾人の気持ちに応えたいと思っているのだと思う。しかし、現実の日本の自治体の台湾向けのおもてなしとして、繁体字情報への努力は明らかに足りないどころか、やってはいけないことをやっている。これらの結果が、残念ながら中国出身の中国語母語職員では対応が難しいことを証明している。
■繁体字情報は繁体字圏の人材に任せてほしい
外国人向けに自治体が中国語情報資料をつくる際、まず、日本人職員自身が、簡体字と繁体字では専門家が違うことは理解するべきであり、中国出身の中国語母語職員がいたとしても、彼らにはできる限界があって、繁体字には対応は厳しいことを知らなければならない。そして、繁体字案件については餅は餅屋であって、簡体字圏の人をかませてややこしくすることを避け、繁体字圏の人にチェックを仰ぎ、その意見を聞く体制をつくることを希望したい。
自治体の日本人職員は数年後には異動する。新しく異動してきた日本人職員はこれまでの仕事を知る中国語母語職員を頼る。中国語母語職員は自治体にとって大変重宝な存在である。しかし、日本人職員は、中国語母語職員に仕事を丸投げできたとしても、みずからに現代漢字文化圏の教養や常識がなく、漢字文化圏の言語タブーを知らないことをなおざりにしてはいけない。特に簡体字と繁体字の溝は感情的なものも含めてかなり深く、日本人職員の無知がややこしさを生んでしまうこともあることに留意が必要である。
そして、中国語の知識があると考える日本人職員も、自分の中国語の偏りを検証する必要があることも指摘したい。以前、「台湾人に「早上好」と挨拶してはいけない理由」という文章で取り上げたが、日本で学んだ中国語ならば、それは簡体字圏の中国語にすぎず、繁体字については実は全然知らないんだという謙虚な気持ちを持ってもらいたい。
(原案:黒波克)
(翻訳:Szyu)