台湾の秘境を行く:司馬庫斯 その5

前回は、厳密に言うと司馬庫斯ではないけど、住所的には司馬庫斯と同じ「斯馬庫斯」となっている、
司馬庫斯とは山向かいにある、新光、鎮西堡の集落を紹介したんだよね。

こちらの集落は、司馬庫斯のような、少数民族によるアトラクションというのはなさそうだけど、
司馬庫斯同様、鎮西堡の集落の奥にある神木を見るハイキングが、個人的にはすごくお勧め。

ただ、鎮西堡神木群までハイキングする方法は、ネット上に余り情報がないんだよね。
今現在、例えば、新光集落にある日日春民宿に出ている情報が一番わかりやすいかと思うので、とりあえずこれを紹介するね。
今現在の情報提供は難しいけど、今後は、「鎮西堡」「神木」「B區」などでググれば、情報が出る日が来るかもしれない……

参考までに、私が行ったときのハイキングでたどった道の軌跡を張っておくね。

下部の濃いピンクの部分が、登山口から鎮西堡神木群B区をハイキングしたルート。
そして、上部のは日日春民宿の場所。
つまり、集落から登山口まで結構距離があるわけで、
登山口までは、ところどころ悪路とはいえ舗装されているので、行く足があるのがベター。
登山口までの道は案内が出ているけど、ちょっと小さいので見逃さないようにしたい。

ハイキングルートは、登山口からしばらくはルートは1本だけど、途中からA区とB区に分岐する。

A区はかなり時間がかかると思われるため、B区へ行くのが現実的かなと思う。
B区の場合は、神木エリアになったら、反時計回りにぐるりと回る。
反時計回りに回るのは、その方が体力的に楽という理由だろうと思う。
司馬庫斯も神木エリアはぐるっと回るようになっているけど、
鎮西堡神木群の方が、そのぐるっと回る円周が大きく、見るのに時間がかかる。
司馬庫斯のようにメッセージ性がある神木があるわけではないけど、
さまざまな傾斜地にある神木を眺めて回れる楽しみはこちらの方が大きいかな。

B区の神木エリアの地図と、途中ですれ違ったきこりの人が書いてくれたB区までの地図。
行き先を示す案内板は立っているので、相当なことがない限りは道には迷わないだろうとは思う。
   
ちなみに、ハイキングルートにはベンチ、案内板、ハイキング道の整備はそれなりにしてあるけど、トイレはない。

司馬庫斯と違って、鎮西堡神木群がおもしろいのは、小川を越えていくというルートが結構あることかな。
  
川のところまでおりるためのロープとかが用意されていて、石に矢印が書いてあって、これをたどれば向こう岸に着けるようにはなっている。
これが一番ダイナミックな気がするけど、橋を渡ったり、川沿いを上ったり、いろんなパターンがある。
雰囲気はいいけど、どれも基本的に子供でも行けそうな難易度の気がする。

もちろん神木があるぐらいなので、奥深い森の中をハイキングするわけなんだけれども、
山の中には少数民族のきこりがいて、実際に遭遇したり、そこかで木を切り倒す音がしたり、ところどころで切って間もないような木の切り跡を見ることも多くて、
誰もいない静まり返った森というのとは違う、どこかで森を手入れしているであろう人の気配を感じながら森を歩くというのは、感情が研ぎ澄まされ、妙に新鮮な経験をしたと思う。

きこりの人が、うまく木が切れなかったときに「ばかやろう」と言っていたのが妙に記憶に残った。
きこりの人は一様に長靴を履いているんだけど、こう考えると、ここを歩くのに最も適した履物は長靴なんだろうか……

ということで、結構書くのに手間がかかった司馬庫斯シリーズはこれで終わりにしようと思うけど、
また何かあったら、わかる範囲で追加したいとは思う。

2015年東京馬拉松賽後回顧

2015年東京馬拉松是我第九場馬拉松,時間和京都馬拉松只差一個星期。連續兩個星期天參加全程馬拉松,心裡頭非常不安,因為一個星期的間隔真的很短。

為了模擬短間隔賽事,我在福岡馬拉松後的第六天開始做10K慢跑。本來以為賽後肌肉不再酸痛就算完全恢復,不過一跑才知道,身體其實沒有完全復原,全程馬拉松累積的疲勞比想像得嚴重。只是跑個10K,整天雙腿都非常累,而且恢復得相當慢。當時我就明白:自己必須在京都馬拉松後身體沒有完全回復的狀態下,再跑一次全程馬拉松。

我原先的計畫是把京都馬拉松當作東京馬拉松賽前的30K以上的長跑練習。用5h30m的速度跑京都馬拉松,不要讓自己太累,然後用5h的速度跑東京馬拉松。

不過參加京都的EXPO時,看了京都的賽道影像畫面,非常感動,而且京都馬拉松當天會場的氣氛也不錯,於是臨時決定放開來跑。結果在京都的40K附近,左小腿嚴重抽筋。完賽之後,小腿非常痛,成為一大不安要素。

我的小腿疼痛大約到了京都賽後第三天才漸漸緩和。
賽後第四天,小腿大概恢復九成左右。這一天就是東京的EXPO開場日。真沒有時間了。
賽後第五天,小腿幾乎不痛了。我在這一天早上做了3K的慢跑,做肌肉狀態和姿勢的最後確認,然後就去EXPO報到。
賽後第六天(東京賽前一天),早上醒來時,小腿的肌肉仍然有緊繃感。這一天的任務是研究起點會場的地理位置和賽道沿途的景點。

我雖然已經跑過了三次東京馬拉松,不過並沒有特別熟記都廳附近的地形,每次入場就只是跟著人潮走而已。不過今年的東京馬拉松安檢非常嚴,所有的跑者強制分流入場,狀況變得比較複雜。如果事前確實掌握集合會場內的地理位置,寄物、上廁所、移動到集合區,就可以一氣呵成。不用擔心走錯路。

至於沿途景點,我雖然知道皇居、東京鐵塔、淺草寺等賽道上的大景點,但是沒有品味過其他的細節部分。如果能把握沿途的細節部分的話,跑起來會更有趣。所以我比照京都的經驗,背東京的賽道路線,然後研究沿途的景點。

◆◆◆

東京馬拉松大會當天,早上醒來時小腿肌肉還是有緊繃感。心裡頭非常不安。

由於這次東京馬拉松的安檢變得更嚴,所以我比去年提早10分鐘出門。

東京馬拉松的賽前天氣預報,從陰天改成下午下雨,然後又改成上午下雨。由於這次明文規定不能帶傘入場,所以我準備了一件可以用完即丟的雨衣和一個透明大垃圾袋,如果集合時下雨的話,就套上垃圾袋。雨衣是完賽後預防萬一的裝備。幸運地,當天只有早晨下小雨而已。當我到了會場附近時,雨幾乎停了。


東京馬拉松的安檢關卡。這次的東京馬拉松不能帶傘和瓶罐入場。如果要進場,必須在關卡之外放棄身上的傘和瓶罐。我從7:40開始排隊,到了8:10才通過安檢。花了整整30分鐘。


新宿中央公園水廣場。東京馬拉松起跑區的一部分臨時廁所設在新宿中央公園的水廣場。東京馬拉松最大的問題就是廁所不足。今年起跑會場的臨時廁所總數是496個。比去年少了148個。上廁所要花半個小時排隊,對跑者而言壓力非常大。另外,大會沒有區分男女,也沒有區分小號和大號的列隊,這也會影響排隊效率。我還算幸運,順利上完廁所,然後順利到達起跑集合區域。

由於我不知道短期間內跑兩次馬拉松對身體有多少影響,所以我這次的起跑方針是壓低自己的速度,不要讓自己的雙腿太累,然後把重點放在欣賞沿途風景,好好享受大會安排的路線。


西新宿的摩天樓群。從都廳出發後,第一個景點就是西新宿的摩天樓群。這一帶的摩天樓是從1970年代開始冒出,然後成為20世紀東京的現代都市符號。20世紀已經過了十多年,西新宿摩天樓群的現代光環也不再那麼耀眼了。

過了新宿一帶,就是靖國通的下坡路段。我一直提醒自己,要克制自己的腳步,不要因為是下坡就亂了自己的步調。我保持了自己的步調,通過防衛省,到達神田川河畔。


我雖然跑過三次東京馬拉松,不過這一次才終於欣賞到神田川的風景。這是因為東京馬拉松的參賽者太多,如果沒有跑在賽道最右側,神田川會被其他跑者擋住。由於路上跑者非常多,為了安全,跑步時必須留意前方,所以很容易忽略路旁的風景。

過了神田川,經飯田橋到神保町。神保町是東京著名的古書街。不過古書街本身並不是馬拉松路線,馬拉松路線是從古書街的某個十字路口通過而已。所以神保町的風景只有幾秒鐘可以看而已。


神保町。路口城南信用金庫後方的灰色大樓是創造出很多人物與故事的集英社本部。

過了神保町之後,就是皇居。日本的皇居前廣場是世界上少有的超大廣場。世界上的大廣場多半都有政治色彩,日本的皇居前廣場以前也是政治活動的廣場。不過1952年發生了左翼抗爭流血事件後,這一帶的集會管制變嚴,結果政治訴求運動轉移到其他地區,皇居前廣場變成沒有政治色彩的大眾公園。皇居之後的主要景點就是日比谷公園、增上寺、東京鐵塔。日比谷公園附近看熱鬧的民眾很多,而且是公園本身是10K跑者的終點,42.195K的跑者必須讓道,所以對跑42.195K的人而言日比谷公園並不是很顯眼的景點。

日比谷通跑到底,就是第一京濱。跑到這裡,我稍微鬆了一口氣。因為這裡是13K,我的小腿沒抽筋。這表示狀況比跑京都時要好。第一京濱道路兩旁完全是大樓。如果沒有時空概念的話,跑第一京濱會跑得很無趣,因為除了大樓以外並沒有特別的景觀。不過如果有時空概念的話,就有想像的空間。


第一京濱。照片中紅色大樓下方天橋的位置是江戶時代前期江戶出入東海道的關口。過了天橋,就表示出了江戶。


第一京濱(回程)。照片右方有個巨大花圃。這個巨大花圃是由巨石構成。這些巨石其實就是第二代江戶出入東海道關口的遺跡。過了這個關口,就表示進入江戶。


回程經過日比谷,公園附近的民眾已經散去。這時候就可以看清楚公會堂的樣子。公會堂前的道路最深處還可以看到日本國會的中央尖塔。

從日比谷轉銀座方向後,我又稍微鬆了一口氣。因為已經過了半程,雙腿還是沒有抽筋。只要再撐個21K就可以了。

我的前四個5K的時間分別是:33m25s、33m22s、34m01s、33m51s

銀座到日本橋一帶是東京車站後站的精華地段,這裡有很多名店和百貨公司。這個區域的賽道比較窄,跑者密度變高,而且兩旁觀戰的民眾非常多,所以比較無法盡情欣賞沿途的都市景觀。北上往淺草寺方向後,賽道又變寬了,不過這一帶只是一般的市區街道。途中經過淺草橋時,我想看一下停在神田川的屋形船。不過淺草橋兩側人行道都站滿了觀戰的民眾,所以幾乎看不到神田川的風景。


從淺草寺折返後,我在29K左右被阿拉蕾追過。接下來就是我和阿拉蕾的13K的拉鋸戰。

跑到這個階段,我知道自己的雙腿還可以持續出力,所以就不在乎七天前留下的疲累了。以前跑到佃大橋前會有恐懼感,不過這次上佃大橋時,卻覺得還好,就只是上橋時路旁沒有民眾,然後阿拉蕾離我越來越遠而已。佃大橋雖然長,雖然上橋之後還有上坡,但是也都還好。我完全處於享受比賽的狀態了。

通過豐洲車站後,我的後方傳來一陣吵雜聲,而且越來越近。本來以為是氣球人部隊在鼓勵跑者。我回頭一看,的確有一群跑者集團,但是完全沒有氣球人。跑者集團的中心人物的確一直在大聲喊話鼓勵大家前進。仔細一看,原來是「Q強」。


Q強(高橋先生)。高橋先生是2000年雪梨奧運女子馬拉松冠軍,接受過日本國民榮譽賞,還在2001年柏林馬拉松打破女子馬拉松的世界紀錄。

2004年,當時還是高橋選手的Q強在日本奧運代表選拔中落選,一時成為日本新聞頭條話題。同一時期,我正好遭遇了人生的大挫敗。當時高橋選手在電視上發表的落選感言有很多正面積極的內容,高橋選手的感言給了我很大的鼓勵,也給我很大的勇氣。高橋選手退休後,變成高橋先生,透過各種管道提供馬拉松的經驗承傳。我的練習方式和比賽時的補給技巧也有參考高橋先生的建議。這次遇到高橋先生,而且能和高橋先生一起跑步,真的感動得眼淚快掉出來了。

我的第39K的速度掉到7:24/km。不過在高橋先生的鼓勵下,第40K的速度變成6:19/km。讓我一度追上了阿拉蕾。不過到了東雲橋時,跑者太多,我被前方的跑者擋住,無法保持速度,結果阿拉蕾又離我遠去。在40K的最後補給站,我稍微停下來喝了最後的運動飲料。高橋先生的集團也離我遠去。我在後半四個5K花的時間分別是34m00s、33m40s、35m12s、35m26s。

之後,我在有明之前又重新追過阿拉蕾,然後撐過了有明站前立體交叉的上坡的最後難關,維持自己的步調,跑完了最後的2.195K。

阿拉蕾是個理想的好敵手。

我的大會完賽時間是5h05m52s,晶片時間是4h47m49s。

GPS記錄:

◆◆◆

由於七天前才跑過京都馬拉松,所以我很擔心這場比賽會跑得很慘烈,所以我幾乎是以半放棄的心態來跑這場比賽。以看風景為主,跑步才是其次。不過這種做法反而意外讓我保住了後半戰的耐力,結果這次的晶片時間比京都快了5分鐘。我在起點、途中、終點,看到了幾名跑過京都馬拉松的跑者,因為他們和我一樣,都戴著京都馬拉松的紀念Buff頭巾。看到這些跑者,就不會覺得孤獨了。

這次起跑時刻意壓低了速度的結果,就是35K後還是可以維持一定的速度。我以前從來沒辦法想像我可以在35K之後還能維持7:05/km的速度。而且這次比賽完全沒有抽筋,也沒有任何疼痛感。是我九場馬拉松當中,跑得最舒服的一次。完賽之後,徒步到電車站,上下樓梯,完全不痛苦。算是得到了非常寶貴的實戰經驗。

雖然這次賽前有預習過比賽路線,不過沿途某些景點在大樓與大樓的縫隙之間,可能兩三秒就過去了。所以這次還是漏看了很多景點。我只能說:東京太大、太深奧了,我的知識和經驗太渺小、太淺薄了。

台湾の春巻

台湾に行ったら小籠包を食べたい人がほとんどだろうけど、
こういうののほか、普通に、餃子とか饂飩とか春巻というのはどんな味なのかと思うかもしれない。
餃子や饂飩は、それなりにイメージのとおりのものが出てくるわけだけど、
台湾で春巻を食べようとすると、我々が考えているものと全く違うものが出てくる。

春巻は「春巻」(chun1juan3)と言うんだけど、小麦粉を焼いてつくった薄皮に野菜などを入れて巻いたもの。
揚げ物ではないんだよね。

余りいい写真が撮れなかったんだけど、春巻の屋台を見つけて買ってみたよ。
 
これは屋台だからこんなゴージャスでデラックスなものになっていて、「潤餅」(run4bing3)と呼ばれている。
実際に家庭でつくられるものというのは、もっと質素で小さいと思う。

家庭では、屋台でこういうジャンボ春巻の完成品を買って食べるというだけではなく、
市場で春巻の皮を買ってきて、あり合わせでつくった野菜いためなどを包んで食べたりもする。
野菜いためというと、日本の春巻みたいにしっかり中華風のとろみがついている気がするけど、そういうわけでもない。本当に普通のいためたものが具だったりする。
あるいはピーナッツの粉とか砂糖とかを入れて包んで食べたりする。

以前は、市場なんかに春巻の皮を焼いているお店とかがあって、
それはまるでクレープ屋さんだけど、もっと曲芸チックにがんがん焼いて売っていた。
つまり、台湾のクレープの皮というのは円形らしいんだけど、
それも含めて、春巻の皮を売る店を見つけられたら、また紹介したい。

ちなみに、我々がイメージするような春巻というのは、
味の素の冷凍食品などで台湾にも浸透し、今では普通に台湾で食べられるようになっている。
「春巻」とだけ言うと、揚げないものを想像する人もいるかもしれないので、
「炸春巻」(zha2chun1juan3)、つまり揚げ春巻と表現する方がわかりやすいかもしれない。

2015年京都馬拉松賽後回顧

京都,是我在日本生活時間第二長的都市。

簡單算了一下以前在京都生活的時間,斷斷續續加起來超過30天。這30多天真的是「生活」。我住的是可以長期住宿的便宜民宿。與其說民宿,倒不如說是民宅改裝成的宿舍。我就住在民宅的某個房間,住宿客輪流使用廚房和衛浴設備,垃圾要自己分類整理。這種感覺和「非日常」的飯店生活完全不同。

我第一次到京都時,最大的衝擊就是這個地方的人的腔調和東京完全不同,部分詞彙也不太一樣。只有公眾廣播是用東京的腔調。感覺起來就像是到了異世界一樣。斷斷續續的30多天的生活當中,大約有一半的時間是上課,另一半的時間是觀光,另外有幾天是上觀光的課。

我上一次到京都,是2011年的事了。

我不知道以後是否還有機會來到這個古都,所以這次京都馬拉松算是我重拾回憶、重新認識這個古都的特別活動。


搭車到京都的途中,岐阜一帶正在下大雪,車窗外的能見度很低。過了米原之後,景色才回復正常。

◆◆◆

2015年的京都馬拉松是我第八場馬拉松。我在這三年間雖然跑過七次馬拉松,不過我還是覺得馬拉松很可怕,因為42.195Km真的太長了。為了克服這種恐懼感,我在準備比賽時,一定會練30K長跑來強化心理狀態。不過今年年初,膝關節的狀況不佳,我只能依身體狀況做零星的10K或20K的練習,無法練30K長跑,所以這次賽前的練習量無法和前幾次大會相比。

另外,友人警告過我:京都馬拉松很難跑。所以我是在身心準備皆不足的狀態下,非常戰戰兢兢地面對這場大會。考量交通、體力、舒適性,這次改住飯店,不住民宿。

大型市民馬拉松起點最大的不安要素就是廁所。東京和大阪馬拉松都有廁所數量不足的問題。其實這真的沒有辦法,因為三萬多人的大會很難準備足夠的廁所。廁所不足對跑者而言就是一大負擔。京都馬拉松的跑者人數只有東京大阪的一半,而且起點開放了大運動場和棒球場的廁所,數量非常多,大會也派了專人舉牌把大號小號的列隊明確分開,廁所距離集合地點又近,所以參加京都馬拉松的跑者比較不會有如廁方面的壓力。

大會鳴槍開跑後,跑者們從西京極體育場出發,從五条通向東,然後從葛野大路通口北上,再由葛野大路轉四条通向西。

我在這次賽前,刻意花了時間記了一下馬拉松路線和沿途的景點。有了地理概念,就可以盡情地享受這場比賽。例如我跑到五条通時,會期待之後的葛野大路通和四条通,我以前住的民宿就在葛野大路四条路口附近,晚上常常到葛野大路四条路口一帶散步、購物、吃飯。那是一段非常愜意的日子。當我看到曾經去過的拉麵店、購物中心,就有一種親近感。

轉入四条通後,我就開始期待看到桂川。到了桂川,我就開始期待看到嵐山的渡月橋。事前背路線的結果,就是整個馬拉松全程都充滿了期待感。


4K地點的罧原堤四条交差點附近。氣溫只有攝氏4度。

到了一条通,過了廣澤池後,賽道就開始上下起伏。我在跑那霸馬拉松時曾經體驗過高低差的路線,不過那霸的斜坡非常緩,而且非常單純,並不難跑。京都馬拉松的坡道比較陡,而且一個接一個出現。跑起來有點辛苦,不過速度並沒有掉太多,一下子就通過了「きぬかけの路」。

在高低起伏下,體內的營養也不知不覺地快速消耗,結果左小腿在13K左右就出現抽筋徵兆。我跑過的八場馬拉松,這一次的抽筋徵兆最早出現。原因可能是訓練不足,也可能是天氣太冷,也可能是路線起伏太多,也可能是這次選用的補給品的效果不佳。我能做的就只是儘可能多喝大會提供的運動飲料,然後設法撐到給食區補充營養。

過了紫竹、大宮一帶,進入賀茂川沿岸,又是完全不一樣的風景。北大路以北的賀茂川路線是跑左右兩岸的公路,可以眺望河濱公園。

賀茂川北段路線上有個北山通分支,以前這條路線要跑山路(狐坂),是大會中最艱苦的路段。不過今年京都馬拉松廢止了狐坂路線,改加入了京都植物園。跑者們不但不用再跑山路,而且還可以免費進入風景不錯的植物園奔馳,真的是一種享受。


京都府立植物園入口。平時進植物園要買門票,只有這一天可以免費進植物園。植物園內的賽道比想要中要長。


北大路以南的賀茂川路線是跑河濱的泥土路。這又是另外一種不同的體驗。這條路平時就是京都民眾的慢跑路線。雖然是泥土路,但是跑步時並沒有揚起土沙灰塵,而且還可以讓疲累的雙腳腳掌稍微休息一下。

出了賀茂川後,就是這次京都馬拉松新設的京都御苑和京都市役所路線。從這裡也可以看到主辦單位真的非常用心改良路線。讓跑者體驗在舊皇宮旁跑步的感覺,然後再讓跑者們通過京都市役所(1927年落成)的大門前。跑過皇宮又跑過市役所,真的有一種到京都一遊的感覺。

 
京都御苑和京都市役所。

通過了京都市役所,路線又回到賀茂川旁的公路,然後經過京大轉入銀閣寺方向的今出川通。今出川通是京都馬拉松最後坡道,通過折返點後,就只有下坡,然後進入賽程的最後的2K。不過我通過折返點後,左小腿到達極限,不論怎麼伸展,怎麼調整姿勢,就是止不住抽筋。

最後我忍著左小腿抽筋,在大會時間5h00m18s通過終點。晶片時間是4h53m27s。


GPS記錄。

◆◆◆

和我過去參加過的其他大型市民馬拉松相比,京都馬拉松的跑者實力分布比較平均。以前我參加的大會,大約半數跑者是五小時之後才通過終點。不過這次的京都馬拉松,五小時之後才通過終點的人是少數派。

由於今年的調整狀況不佳,所以原先打算用五個小時半的速度來跑這場比賽。不過大會辦得比我想像得好很多,而且我周圍的跑者跑得並不慢,所以我臨時決定放開來跑。雖然這次大會拿掉了狐坂路線,不過整個路程當中還是有許多上上下下的起伏,所以還是不好跑。雖然跑得有點辛苦,不過京都的風景好,每跑到一個地方,就有新的體驗,而且還有新的期待。我完完全全享受了這場比賽。這次賽前背路線圖是正確選擇。

這次大會的給食區準備了八種食物:香蕉、小蕃茄、橘子、熱鹽飴、醋昆布、安胖、史波羹、生八橋。由於途中我的小腿一直有抽筋的徵兆,所以每到一個給食區,就努力吃東西來補充營養,難得把所有的食物都吃過了。不過左小腿還是在最後關頭爆了。

來到京都,本來應該吃一些有代表性的京都料理。不過很多店家不適合一個人用餐,再加上這幾年很少有吃拉麵的機會,所以這次集中攻略拉麵小路,順便吃了神戶牛的漢堡。

這次在京都停留的期間,我每天都到錢湯洗澡。錢湯的空間比飯店的浴室大,而且有冷水浴、藥浴、按摩浴、電療浴等,可以放鬆,也可以消除疲勞。洗完澡,全身暖烘烘,散步回飯店,十分愜意。其中有一天還被一名日本小女生搭訕,算是非常特別的澡堂奇遇。

這次的京都之旅整體而言非常快樂,唯一比較遺憾的就是在這個城市的街頭聽到的語言大多不是日語,感覺就像是到了一個沒有日本人的日本古都。

台湾の素食弁当の再現性

台湾でピクニックの弁当を注文するときに、普通の弁当か素食の弁当かと聞かれたので、両方注文してみた。
 
弁当の上に「素」とある方が、素食弁当。(「台湾の素食の食品表示 その3」も見てね。)
台湾のお弁当と日本のお弁当の決定的違いは、白米の上におかずを置くことだよね。(「台湾の弁当」も見てね。)

両者の弁当を比較してみて、卵がある方が普通の弁当だというふうにわかると思うんだけど、
卵がなかったら、どちらが普通の弁当か、見た目ではちょっとわからないよね……
そして、見た目もなかなかうまく再現しているんだけど、食べてもわからないかもしれない。
もちろん、お肉っぽいものがお肉でないこととかは食べてすぐ気づくことだけど、
食べてみて両方おいしいわけで、両者は満足感という意味では本当に遜色ない仕上がりになっている。

日本人にしてみれば、素食はベジタリアン、菜食だから、
そういう弁当にするためには、何かを犠牲にしないといけない、
だから、弁当としては何らかの物足りなさが残るものになると思うかもしれないけど、
そういう貧相なものではなく、これはこれでありなんだというのが素食なのかなと思う。
ついでに言うと、上記の弁当は、素食にありがちな、
再現品が妙に密度があって重過ぎるというのもなかったのもよかった。

台湾でこういう弁当のチョイスがあるというのも、まさに素食志向の人が多いからだよね。
ネット上では、台湾素食人口は全体の1割とか書かれている。
とはいっても、この1割という数字の出典は同じで、もう既にここ10年ぐらい、ずっとそういうことが繰り返し言われているので、1割というデータは怪しい気がするけど、
現実的に、台湾人の身の回りでは素食を志向する人をすぐ見つけられるという気がするし、
台湾政府による素食に対する制度整備や、食品会社、レストランの対応や配慮、素食による栄養不足などを指摘する動きなど、素食をめぐる話題をよく見つけられる。
だから、1割というのはコア層にすぎず、何らかの形で素食志向でいる人はかなりいるんだろうと思う。

素食というのは日本人にとっては外国の一事情でしかすぎない話題ではあるけど、
日本に旅行に来る台湾人が結構困っている。
素食志向の台湾人が、ネットのQ&Aサイトで、日本での食事どうしようとか質問するのは、ネットでありがちな話題だよ。
日本が外国人観光客に「おもてなし」なんて言うんだったら、このあたりも考える必要があるよね。
以前「台湾人とベジタリアン」というトピックもつくったけど、
台湾のベジタリアンというか、台湾の菜食文化のことは台湾素食という単語で覚えておいた方がいいかもしれない。

台湾の素食の食品表示 その1」「その2」「その3」も見てね。

日本人與麵包(3)

日本的麵包起源可以追溯到江戶後期的【兵糧パン】。不過當時【兵糧パン】比較像餅乾。比較正統的麵包始祖是橫濱的麵包師內海兵吉。內海兵吉是從法國軍艦上的廚師學會製作麵包的技術,然後1960年在橫濱開了日本第一家麵包店。之後,麵包漸漸在日本普及。

到明治、大正時代,日本的麵包業者自行開發了紅豆、果醬、奶油等新麵包,麵包也成為日本的大眾食品之一。

那麼麵包到底普及到什麼程度呢?

1919年,東京府把麵包列入府內直轄小學的給食菜單中。也就是說,有不少小孩在學校就可以吃到麵包。

在同一年,東京市為了救濟經濟不景氣下的小市民,在市內陸續開設多家「公眾食堂」。當時東京市的公眾食堂的菜單中也有麵包。

當時東京的公眾食堂提供的食物如下:
定食(早):10錢
定食(午晚):15錢
烏龍麵(普通):10錢
烏龍麵(加料):15錢
牛奶一合:7錢
麵包半斤(附牛油和果醬):8錢
咖啡:5錢
※「定食」指的是有飯、菜、醃菜、味噌湯的套餐。「錢」是1/100日元。「一合」是180cc。麵包的「半斤」單位請參考本站的「日本人與麵包(1)」這篇文章。

公眾食堂是公營機構,當時東京的所有公眾食堂的菜單一律相同。公眾食堂的主旨救濟小市民,所以飲料食物都設定成一般小市民付得擔得起的價位。菜單的內容也是當時日本小市民平常吃的東西。當時日本的中學畢業的社會新鮮人的月薪起薪大約30日元左右。每天都到公眾食堂用餐,勉勉強強可以過得去。

從上面的菜單可以知道,麵包在當時已經是很普通的食物。而且比定食和烏龍麵便宜。

◆◆◆

到了戰後,日本有糧食不足的問題,日本政府為了避免小孩子營養不足,在1946年硬是重新開始實施學校給食制度,當時學校的給食就有麵包。這些麵包的原料是當時佔領軍釋出的麵粉。

雖然麵包是很平常的食物。不過日本民眾的感覺中,主食還是米飯。民眾覺得吃白米飯是日本的傳統食文化。

不過這種感覺其實是錯覺。

古時候的日本只有有錢人才吃得起白米。一般庶民多半是吃雜糧。到了江戶後期,一般民眾才有機會吃到白米。所以日本大眾飲食文化中,白米的歷史並不長。從戰前的東京公眾食堂的菜單內容來看,只有「定食」有提供白飯,而且民眾到公眾食堂未必會點定食,也可能點烏龍麵或麵包。所以米飯並不是日本民眾的唯一主食。

另一方面,日本在戰後糧食不足,所以並不是每個民眾都吃得到白米飯。一直到1950年代中期,民眾才普遍吃得到白米飯。到了1960年代中期,日本的平均個人的白米消費量達到高峰,之後就一直往下掉。也就是說,白米其實是1950年代中期才成為日本民眾普遍的主食。而且1960年代中期之後,白米光環就開始減弱。

為什麼白米的消費量會減少呢?

因為食物的種類多樣化,而且民眾的營養知識也比以前多。

以前日本的食物種類不多,所以大家就只吃白米飯而已。如果只吃白米飯,營養就會不均衡,某些營養不足的話,就會出現飢餓感。就算吃很多飯,還是容易出現飢餓感。所以以前的人可以吃很多飯。

不過營養知識進步,食物種類多樣化後,大家在吃東西時會留意營養方面的問題,所以大家就開始多吃菜,然後不再吃那麼多飯。

麵包就是白飯之外的主食選項。

日本人的麵包消費量從1960年代就一直呈增加趨勢。雖然麵包的價位一直上漲,不過日本人的收入也在成長,和收入相比,麵包反而變便宜了。

到了1970年代,日本的郊外開始出現法米雷斯。法米雷斯的營業形態本來是仿美國高速公路沿線的餐廳,所以菜單是以西餐為主。當時在法米雷斯要吃米飯的話,就只能點咖哩飯而已。其他漢堡肉餅或是食物,都只附麵包而已。由於法米雷斯是當時最時髦的大眾餐廳,所以趕時髦或是新一代的小家庭都會去法米雷斯用餐。
(※關於法米雷斯,請參考本站的「日本的ファミレス」這篇文章。)

由於法米雷斯也有提供早餐,所以當時有些經濟比較寬裕的家長早上就會帶子女到法米雷斯吃早餐,吃完早餐後,就順便買法米雷斯的三明治,當成子女在學校的午餐。結果有些人開始批判家長偷懶,學校覺得這樣的飲食生活不妥,於是要求家長讓子女在家中吃早餐,同時要求家長親手為子女做午餐便當。

1970年代正好也是日本團地文化最興盛的時代。當時的日本團地裡都有超市。很多超市只賣麵包,不賣米。所以很多住在團家的人只買得到麵包,卻買不到米。這多少也是造成麵包消費增加,白米消費減少的推手。

為什麼超市不賣米呢?

因為當時的米是期貨,一般商家不能自由販賣。商家如果要賣米,必須得到政府核准。所以當時很多超市只能用麵包來吸引顧客而已。

到了1970年代後半,日本的便利商店也把吐司麵包和牛奶設定成早餐的主打商品,來吸引顧客。由於超市的競爭對手就是便利商店,所以一些超市也跟著模仿。當時的業者當然也有賣飯糰和便當,不過當時的日本民眾覺得麵包牛奶這種西方的食物比較時髦,所以業者並不重視飯糰和便當。飯糰和便當是在1980年代才成為重點商品。

結果現在日本的便利商店和超市,都買得到各種麵包(包含三明治)、飯糰、便當。對日本民眾而言,麵包的重要性並不輸給米飯。

※2011年日本總務省的家計調查結果,日本家庭年間的麵包消費額超過了白米。這是因為白米要花時間煮,所以想吃米飯但是又怕麻煩的人可能去超市或是便利商店買飯糰、便當或白飯,造成白米消費額減少。相較之下,由於麵包加熱不太花時間,只要原料價格沒有太大的變化的話,日本家庭會保持一定的麵包消費量。

車載カメラを搭載する台湾の車

初めに、今週、台湾で飛行機が墜落したニュースを知り、
事故に遭遇してしまった方にお悔やみを申し上げたい。
今回墜落した飛行機の行き先は、このブログでもお勧め観光地として触れた金門島だったんだね。
台湾のお勧め観光地:金門島 その1」「その2」を見てね。
私も、まさにその会社のその同型の飛行機に乗ったことがあって、何とも複雑な気持ちがしたよ。
 
今回墜落した飛行機の同型機。今から10年前、金門島に行くときに撮影したもの。
ちなみに、この飛行機、復興航空のB-22810は、去年澎湖で墜落したそうで……

このニュースでは、まさの墜落の様子を映した車載カメラ、ドライブレコーダーの映像があったんだけど、
台湾では、事故があると、こうやって車載カメラの映像が出てきたりして、
この事故に限ったことじゃなく、ほぼ毎日、何らかの形で話題になるぐらいだよ。
今回は車載カメラの映像が世界的な映像になったんだけど、
通常、報道機関がこういう映像に対する報道許可をとるという意識が薄くて、
ほとんど許可もとられずに報道されてしまうということも問題になっていたりする。

ところで、台湾では結構車載カメラを載せている人が多い気がする。
2014年2月の統計だけど、
車保有者で車載カメラをつけている人は47.7%、
車保有者で車載カメラをつけていない人は29.7%
車は持っていないけれども車載カメラを持っている人は2.7%
車も車載カメラも持っていない人は19.9%
――ということで、もう半分ぐらいが車載カメラを積んでいるんだよね。
日本ではETC車載器の普及率が50%ぐらいだから、それと同じぐらい普及している。

車載カメラのことは台湾では「行車記錄器」「行車紀錄器」とかいうから、
車載カメラの映像が見たかったら、ユーチューブなんかでこれらのキーワードを入れて検索するとじゃんじゃん出てくるよ。
そういう映像の数々を見ればわかるんだけど、
台湾人は車載カメラをドライブの思い出づくりの用途として積んでいるというより、
どちらかというと、事故に遭ったときのトラブル対策、当たり屋対策、
自己防衛手段として記録しているということなんだと思う。

以前、「台湾の運転免許筆記試験」で紹介したこともあったけど、
こういうのを見ると、台湾の自動車試験は簡単過ぎて、
薄い冊子を軽く覚えて、後は常識感覚で受ければ受かっちゃうよね。
運転技術に関しても、車という機械という操作は習ってきたとしても、
運転することで展開される路上での危険予測が十分頭に入っているかというと、そうでもない。
自分も含めて、ドライバー各人が必ずしも交通ルールに精通しているとは言えないから、
やっぱり記録しておいた方が、後でトラブルを避けられることもあるよね。
そんな社会に対する不信感というのが、車載カメラ搭載をふやさせているのかなと思う。

日本人與麵包(2)

麵包的日文叫「パン」。「パン」是麵包的總稱。

麵包的種類很多,每種麵包當然都有各自的名稱。以下是日本比較常見的麵包:

あんパン(紅豆麵包)
 
あんパン的「あん」,如果寫成漢字的話可以寫作「餡」。日語的「あん」多半指的是豆沙。日本最常見的豆沙就是紅豆沙。あんパン的意思就是包了紅豆沙的麵包。紅豆麵包是1874年銀座木村屋總本店的木村安兵衛發明的麵包,是典型的日式麵包。當歐洲人把麵包傳入日本時,麵包就是單純的麵包,麵包裡面沒有包任何東西。以前日本很多傳統的和菓子是用糯米糰包豆沙,日本人就把這種點心的製作手法應用到西洋麵包。在麵團裡包豆沙,然後放到烤箱烘焙,於是就造出了紅豆麵包。

對歐美人而言,麵包是主食。日本人習慣吃米,麵包只是臨時用來果腹的食物。紅豆麵包則是完完全全的零食點心。因為紅豆麵包是用和菓子概念製成的洋菓子。

一般日本的麵包店、便利商店、超市幾乎都有賣紅豆麵包,因為這種麵包最傳統。由於日本人非常習慣紅豆沙的點心,所以習慣吃米飯的老人也不會排斥吃紅豆麵包。

クリームパン(奶油麵包)
 
奶油麵包是1904年新宿中村屋開發的麵包。奶油麵包中的奶油不是鮮奶油,而是用蛋黃、麵粉、砂糖、牛奶混合後加熱調製的糊(奶黃)。鮮奶油在高溫狀態會完全液化,奶黃本身就是加熱調製的東西,所以不怕熱。麵包裡面包奶黃,就算放進烤箱烘焙,也不會影響奶黃的性質。日本的奶油麵包就是用西洋的麵包技術加上西洋的點心技術製成的日本麵包。
(※日本的奶油口味的今川燒和鯛魚燒也會用奶黃,算是用西洋點心技術開發的和菓子)

一般日本的麵包店、便利商店、超市幾乎都有賣奶油麵包。而且形狀大多都是上面照片中的樣子。一般日本民眾聽到「クリームパン」時,就會聯想到照片中的形狀的麵包。

カレーパン(咖哩麵包)
 
咖哩麵包是1928年深川名花堂開發的麵包。1920年代的日本,很多坊間大眾食堂都有賣咖哩飯。當時的日本大眾很喜歡吃咖哩飯,所以業者就想到在麵包裡面包咖哩餡。咖哩麵包的最大的特徵是用油炸調理。

為什麼要用油炸呢?原因已經不可考。可能是商品開發時試行錯誤的結果,也可能是業者突發奇想。

現在一般日本的麵包店、便利商店、超市幾乎都有賣咖哩麵包。而且幾乎都是油炸調理。這是因為以前的人都是這樣製作咖哩麵包,而且民眾也都接受這種油炸麵包,而且想吃咖哩麵包的民眾就是想吃這種油炸麵包,所以大家就只是照著前人的方法來製作咖哩麵包。

メロンパン(美容胖)

美容麵包也是日本人發明的麵包。不過發明的人和發明的時間已經無法考據。從史料上只能推測是大正時代出現的麵包。メロンパン的名稱由來的說法也不只一種。比較主流的說法是メロンパン的表層酥皮的形狀像哈密瓜表面的網狀花紋,所以就冠上メロン(melon)這個名稱。明治大正時期日本人把和菓子的包餡的手法應用在麵包上,不過傳統的メロンパン並沒有包東西。メロンパン的賣點就是表層甜甜的酥皮。

現在一般日本的麵包店、便利商店、超市幾乎都有賣メロンパン。有些業者在製作メロンパン時,在麵包裡加了哈密瓜的果醬,讓メロンパン真的有メロン的成分。不過這只能算是創意的變則商品。

現在有些翻譯作品中,會把日文原文的「メロンパン」譯成哈蜜瓜麵包。其實以前日本作品在台灣還不普及的年代,台灣的坊間的麵包店和超商就可以買到メロンパン。當時台灣的麵包店就是把「メロンパン」叫作「菠蘿麵包」。當時沒有人把這種麵包叫作哈蜜瓜麵包,一般大眾也不知道這種麵包是來自日本。大家只覺得這是烘焙時表面沒有塗蛋黃液的菠蘿麵包而已。


安胖曼(麵包超人)軍團。上述的紅豆麵包、奶油麵包、咖哩麵包、美容胖,再加上吐司麵包(食パン),就是安胖曼軍團。《麵包超人》是日本的國民繪本。後來還製作成卡通。作品中的麵包就是日本民眾生活中常見的典型麵包。


クロワッサン(可頌)、コロネ(螺絲麵包)。除了上述的麵包以外,日本的麵包店、便利商店、超市還可以看到クロワッサン、コロネ等。クロワッサン(可頌)是法國麵包。法國的可頌有兩種,一種是新月形,一種是菱形。在台灣,有些人把新月形的可頌叫牛角麵包。在日本,近幾年菱形可頌比較常見。很多店家有賣大包的迷你菱形可頌。

コロネ(螺絲麵包)雖然是外來語,不過這種麵包是源自日本。上面提到的麵包多半是先把佐料包在麵團內,再放入烤箱中烘焙。不過螺絲麵包是麵包烘焙好之後,才做調味加工(灌奶油)。


コロッケパン(可樂餅麵包)、焼きそばパン(炒麵麵包)。這兩種麵包的特色也是麵包烘焙好之後,才做調味加工。對日本人而言,可樂餅和炒麵都算是「菜」,所以日本人就把這種夾菜的麵包通稱為「惣菜パン」(總菜麵包)。在日本民眾的營養觀念中,麵包的食材種類少,如果小孩子只吃麵包,營養可能會不均衡。有些家長會到超市買熱狗用的麵包,如果小孩子想吃麵包的話,家長就會做菜,然後用麵包夾菜。這樣子小孩子就可以攝取比較多樣的營養。這種夾菜的麵包當中,比較常見的就是コロッケパン(可樂餅麵包)、焼きそばパン(炒麵麵包)。

平常不做家事也不做菜的人可能會覺得準備這種夾菜的麵包很麻煩,不過對平常有做家事,也有在做菜的人而言其實還好。