「梅與櫻」700回紀念文

「梅與櫻」到目前為止的文章數已經超過700篇了 (本篇為第701篇)。在這700篇文章中,其中614篇 (佔全部主題的87.7%) 為介紹日本和台灣的兩地文化、庶民生活形態、社會制度,以及語言方面的文章。

「梅與櫻」在每達到100篇時,都會留下一篇紀念文,並重新整理一下目錄。寫紀念文的目是一種自我鼓勵,而整理目錄的目的是因為隨著文章累積數量增加,「梅與櫻」的主題可能會因為我們個人的好惡而略有失衡,因此重整目錄有助於讓我們看到什麼樣的主題不足,什麼樣的主題太多,當然也可以讓參觀者方便找到自己想要知道的資訊。

「梅與櫻」本來只是基於好奇心以一種試探性的方式來找出日本和台灣兩地的文化差異,並於網路上寫下自己的學習心得而成立的網站。而我們選用BLOG的方式來表現,只是純粹著眼在BLOG業者提供了種簡易的網站撰寫系統,我們不需要花時間編寫整理複雜的HTML,也不用煩惱網站上的圖案素材,我們只要把文章寫好,按個按鈕,網頁就可以更新了。在這樣的環境下,我們才能全力集中於網站的內容。而不知不覺,網站內容已經累積到了連我們自己也沒有辦法想像的程度,而這個日台文化研究也漸漸由單純的興趣發展成為一種自我充實以及挑戰。

「梅與櫻」中很多題材都是當初我們在感到好奇卻一無所知的情形下,查了很多資料,直到我們滿意為止的東西。也有一部分的題材是屬於是我們已經知道,但是在求知過程中並不順利的東西,我們相信這些求知的經驗或是結果多少可以提供給其它人參考。也就是說,「梅與櫻」對我們而言並不是單純地提供網友們日本或是台灣的一些資訊的網站,在編寫「梅與櫻」的過程中,可以刺激我們學習新的事物,並讓我們思考自己不足的地方,讓我們有機會更了解這個世界。

在編寫「梅與櫻」時,對我們而言最大的收穫並不是解開心中的疑惑,而是在找答案的過程中閱讀了大量的資料,理解了比原來心中疑惑更多的東西。例如近幾年偶爾可以看到一些日本媒體報導外國人犯罪事件,而其中某些媒體又把這些事件過度放大,甚至在台灣的網路上還可以看到一些人把日本的治安問題全部都推給中國人。事實上,當我們實際計算了近幾年日本外國人犯罪率之後,發現不論外國人有沒有犯罪,對於日本整個大環境中的犯罪率都沒有什麼影響,而日本的治安惡化的主要原因也不是外國人犯罪。藉由撰寫日本的外國人犯罪的題材,我們發現很多事情並不是如媒體或是網路上流傳的那般,而這些問題往往是因為一些人沒有實際進行查證,也可能是沒有查證能力,或是基於個人感情,甚至是由一些意圖性地挑動族群衝突的行為所造成。而事實上,在媒體或網路中最顯眼的往往也都是這些極端的資訊。

而在我們研究關於日本的外國人人權問題時,也發現類似的事情。台灣的網路上偶爾會有人談到日本人歧視外國人的事情,然而當我們實際去閱讀一些人權問題報告,或是一些關於反歧視的法律文獻的結果發現,網路上一些人所發表的關於遭到日本人歧視的經驗,很多其實根本算不上是歧視,而是一種人際關係的處理不良,或是一種文化上的不適應。也有一些情形是因為聽信了太多未經查證的消息,本身又對日本人的習慣不了解,因而把所有在日本發生的一些不愉快的經驗全部解釋為歧視:「我想這大概就是網路上某某人所說的『歧視』吧!」。又例如有些人在日本留學或是旅遊時,遭到日本警察臨檢甚至還被搜身,可能有些人也以為這是一種對外國人的歧視表現,但是實際上這頂多只能算是一種職權濫用而已,而日本人自己遭到警察不當臨檢的受害者恐怕遠多於外國人。

除了在寫作時所學到的知識以外,我們在營運「梅與櫻」這個網站時,也可以看到一些有趣的現象。如果光從「梅與櫻」的回應的文章來看,可能很多人以為「梅與櫻」的參觀者多半是台灣人。實際上,我們從各文章被閱讀的次數以及一些連結的來源來看,我們認為其實台灣和日本的讀者人數其實差不多。日本人的回應文章之所以較少,是因為日本人其實並不習慣在眾人面前發表自己的意見,如果一發表,由內容可看出日本人的用字遣詞較為慎重,由這種小小的地方也可以看出兩方的網路使用習慣上的不同。另外,網站成立到現在,我們發現連結我們的網站變少了,不過參觀者卻是穩定地增加中。連結我們的網站變少的原因可能是當初連結我們的網站很多是屬於短期間的試驗性質的網站,畢竟要維護一個網站不是那麼容易,而在這些人嘗試過經營自己的網誌或是網站之後可能就把自己的網站關閉了,因此連結「梅與櫻」的網站變少了。而參觀者變多的原因是因為「梅與櫻」的資料仍然在堆積中,儘管現在「梅與櫻」中的一些題材在Google的檢索結果中並不是那麼顯眼,但是我們相信持續做下去,一定會有變化的。

說到這裡,我們還是老樣子,我們完全不知道自己能寫到什麼時候。老實說,這種問題再怎麼想也不會得到答案的。因此我們也沒有時間去煩惱這種事。對我們而言,把我們心中對於台灣或是日本方面的「謎」解答出來才是最重要的。

最後,謝謝各位網友們的在這段期間的參觀指教。

台湾鉄道の開放感

台湾の鉄道」も見てね。

台湾鉄道に乗っていると、車両によるけど、扉が手動のものがある。
つまり、自分で扉を閉めないと、扉が閉まらずに列車が発車するよ。
台湾人はこういうのになれているようで、別にあいていても気にならないようだ。


デッキのところが段差になっているので、そこに腰かけてもいい。
走行中、デッキの段差に腰かけて外の景色を見ていても注意されない。
ただし、自分自身も含め、手荷物や靴が飛ばされても、それは自己責任ということかな。

そして、駅に着けば――そのままおりて、向こう側まで駆けていくことも可能だ。

現にこの写真を撮っている段階でも、おりて向こうまで行ってしまった人もいたわけで――
大胆なキセル行為とか、乗りかえ行為もできなくはないみたいだ。

別の電車で、こんなのもあった。

トロッコ列車じゃないんだけど、屋外気分で景色を堪能できる。
先頭や真後ろに乗って電車の軌道を追いたい人には、乗りたい場所かもしれない。

日本的茶道(5)

在武野紹鷗之後,將「侘茶」推到頂點的人物是日本茶人千利休。千利休是武野紹鷗的門下弟子,他和武野紹鷗的女婿今井宗久、武野門下弟子的兒子津田宗在擔任織天信長以及豐臣秀吉旗下的茶頭 (茶道的指導者) 時被稱為「天下三宗匠」。此外,千利休還有日本茶聖稱號,這是因為日本茶道的形式是千利休在擔任織田信長及豐臣秀吉的茶頭時所完成的。

千利休在小時候就對茶道非常有興趣,早年拜師於室町幕府的茶人能阿彌,之後又在北向道陳門下學習茶道,十八歲時由北向道陳引薦,成為武野紹鷗的弟子,一直到武野過世為止,千利休在武野的門下將近學了十五年的茶道。之後千利休到京都的大德寺修禪,嘗試探索「侘茶」的精神世界,並找機會走訪各地,實際參觀一些陶瓷器的製作,以作為茶道的背景知識。

隨著千利休名氣愈來愈大,連愛好茶道的日本戰國梟雄松永久秀在開茶會時也邀請千利休出席以進行交流。後來織田信長推翻室町幕府,在京都舉辦茶會時,便邀請千利休來調製茶水,之後千利休就成為織田信長旗下的茶頭。織田信長死後,織田信長的後繼者豐臣秀吉繼續聘用千利休,並給予年薪3000石 (當時一個生活小康的下級武士的年薪約為30石,3000石即一個小康家庭收入的百倍),而千利休在茶道世界的影響力也到達頂點。

千利休的茶道跳脫了村田珠光及武野紹鷗的框架,他試著請工匠作出自己所喜歡的茶器、茶爐,並嘗試使用竹製的花瓶擺飾,而在唐茶器和日本茶器之外,千利休還在茶道中加入了朝鮮茶器的要素。

在茶室方面,武野紹鷗時代的茶室多半是兩坪大小的草庵,而千利休則嘗試搭建一坪甚至半坪大小的迷你茶室,這是因為千利休認為在小空間之內更容易集中注意力,更有利茶道的修行,這個想法也幫助豐臣秀吉在外集中精神打了勝仗。而千利休也利用豐臣秀吉的政治力量舉辦大型茶會,藉由大型茶會,千利休將茶會的形式 (例如禮法、茶水的準備、和菓子、懷石料理的準備等) 完備化,並推廣開來。

後來,由於千利休執著於樸實的「侘茶」,和豐臣秀吉的好大喜功的思想起了摩擦,又由於當時時豐臣秀吉已經統一天下,而且政權已經穩固,因此千利休的茶道對於豐臣秀吉而言已經失去魅力,因而藉故將千利休定罪,令千利休切腹而死。

註:
千利休以一介平民的身分卻可以領年薪3000石,是因為在戰國時代日本社會極不安定之時,千利休的「侘茶」茶道具有安定百性的作用,同時茶道也有助於讓武士的心沉靜下來。豐臣秀吉認為利用千利休的茶道有助於鞏固自己的政權以及安定當時的社會,所以才會給予千利休極高的年薪。
相關文章連結:
日本的茶道 (1)
日本的茶道 (2)
日本的茶道 (3)
日本的茶道 (4)

台湾の鉄道

台湾の列車について全然書いていないような気がする。
鉄道のことは「鐡路」と言うらしいけど、会社名が付されていない場合は、
普通はそれは台湾鉄道のことを指しているのだろうと思う。

そのほかには、阿里山に行くものとか、捷運(MRT)とか、高鐡(新幹線)とか、
これらも厳密に言えば軌道が敷設された鉄道なんだろうけど、
今の段階では、圧倒的存在感があるのは台湾鉄道なのだ。
ちなみに、鉄道会社は、上記のほか、貨物専門のものもあるらしいよ。

台湾鉄道は、切符の大きさとか、自動改札とかは、日本のものに似ている。
自動改札の写真を撮っているので、載せておくね。

このアングルでは見えないかもしれないけど、「OMRON」と書かれている。

ただ、台湾鉄道は通勤路線としてはいま一つのところがあって、
時刻表などを見ていると、ラッシュ時間や終電など信じられないような設定になっている。
この辺が、捷運(MRT)とは大きく違うところのような気がする。
台北に限っていえば、捷運(MRT)の路線が広がっていくに従って、
台北近郊の人は台湾鉄道から捷運(MRT)を使う傾向にある。

関連して「捷運(MRT)」も見てね

日本的茶道(4)

日本的茶道中的「侘茶」(わびちゃ),如果從字義上來看,日文的「侘」(わび) 的其中一個意思是閑適寡欲、遠離世俗,而所謂的「侘茶」則是指閑靜脫俗風格的茶道。一般而言,「侘茶」的特色是用心來品茶,而「侘茶」的茶人多半都有一些禪宗及和歌 (日本詩) 背景,在茶器方面則是在大陸華麗的茶器之外另開新道。

最早提出類似「侘茶」概念的是十五世紀的日本茶人村田珠光,他主張用心來體會茶的意境,並提出在不完美的東西中尋找美學的想法。在村田珠光的觀念裡,滿月固然是一種美,但是當雲遮住的月亮時那種忽隱忽現、無法看清整個明月的自然景象更美,因此他認為以樸素的日本茶器來取代華麗的大陸茶器,就如同以可以營造出另一種自然而不華麗的美學。不過村田珠光還沒實行他的理念時就已經過世了。而真正把「侘茶」思想進行推廣的是十六世紀的日本茶人武野紹鷗。

武野紹鷗是村田珠光門下弟子的弟子,而武野紹鷗出生的那一年,正好是村田珠光過世的同一年。儘管武野紹鷗沒有見過村田珠光,但是由於他非常景仰村田珠光的茶道思想,因此他實踐了村田珠光沒做到的「侘茶」茶道理念,使用日本當地的陶製茶器,並以竹製的小道具來調製茶水,來追求樸素自然的美。

而在茶室方面,武野紹鷗以簡樸的草庵代替當時所流行的豪華的書院造。草庵茶室特色是可以在自己家中的一角營造出一種深山幽谷的氣氛,進入茶室則會有一種遠離塵囂的感覺,又由於在草庵茶室中不會感受到書院造中的室內禮儀的束縛,也不需要花心思去布置書畫等藝術品,符合「侘茶」的閑靜風格以及美學,因此武野紹鷗的茶室就如同在大都市中的世外桃源一般。由於搭建草庵茶室遠比搭建書院造容易,對於一般庶民百姓而言並非遙不可及的東西,因此草庵茶室也漸漸增多,而「侘茶」思想也漸漸成為當時茶道的主流了。

台湾の白いゴーヤ

沖縄と台湾は近いから、もちろん台湾にも沖縄と似たような食べ物があるんだけど、
台湾と沖縄とで大きくイメージが変わる食材の一つにゴーヤがあるのかなと思う。
台湾でよく見られるゴーヤは白色をしているんだよ。

白いゴーヤ、白ゴーヤはこんな感じ。
 
ここでの写真は、どう見てもジューススタンドでゴーヤが売っているということなんだけど、
通常、ゴーヤはスープとかいため物とか、料理の食材とかに使われるものだよ。

どうしてゴーヤが白いのかというのは、苦いゴーヤを品種改良したものだという話があるけど、実際のところはよくわからない。
確かに、白いゴーヤは緑のゴーヤよりも苦くはないらしい。

色のことだけど、そもそもゴーヤには緑色のほかにも黄緑色とか白いものとかがあるようで、
日本人である我々は、ゴーヤといえば緑色ということで、そのごくごく一部の色しか見ていないということのようだよ。
そして台湾人も白いものばかりを見てきているから、日本のスーパーに緑色のものが並んでいるのに違和感を覚えるかもしれない。

もちろん、台湾に緑色のゴーヤも売ってないわけじゃないよ。

最近は食文化も多様化してきているようで、緑のゴーヤもより売り始めているとのことだよ。

ちなみに、ゴーヤは「苦瓜」(ku3gua1)というよ。
緑でも白でも、普通の人はこれらのことを「苦瓜」というんだって。

日本的茶道(3)

日本的茶道由單純的喝茶延伸到藝術品的鑑賞大約是在室町時代,而在這個時代的茶道發展特徵是以華麗為主。一邊和客人喝茶,一邊欣賞及展示華麗的茶器以及裝飾在華麗的茶室中的華麗的藝術品。形成這種茶道風格的一個原因是當時的幕府以各地大名之間非常流行收集唐宋的藝術品 (例如書畫、器皿等)。而另一個背景則是當時日本的武士階層間開始流行一種「書院造」的住宅形式。

所謂的「書院造」本來源於佛教僧人用來會客及讀書的房間 (他們稱之為「書院」),之後日本的武家的住宅也開始導入這種書房兼會客室形式的物件,而許多武家的禮法也都是從「書院造」的建築環境下產生,而一些喝茶時的禮儀也在武家的禮法中形成。

另一方面,當時的而武家非常流行收集外國的藝術品。他們在得到這些舶來藝術器之後,有一部分是來拿當作裝茶的容器,另一部分則是當成裝飾品來布置自己的會客室,並請人來鑑定這些藝術品。例如當時室町幕府就有僱用專人來整理足利將軍家歷代所收集的藝術品。又由於些藝術品的鑑定人都有相當的文化背景,對於喝茶方面也非常講究,因此這些鑑定人除了幫幕府鑑定藝術品外,有時還同時擔任調製茶水的工作。

後來到了十五世紀後半,日本茶人村田珠光提出另一種茶道思想。村田珠光是個出家人,他在年輕的時候對於出家人的生活感到無趣,因此外出流浪,並愛上鬥茶遊戲。之後村田珠光回頭修禪時,發現從茶中也有佛理的存在,並試著把他理解的佛理應用在喝茶的哲學上。當時武家在喝茶時非常講究茶器以及茶室內的藝術品的裝飾,而且從茶器或是藝術品都是使用來自大陸的非常奢華的精美高級品。而村田珠光則認為喝茶時主人與客人的心靈交流比物質玩賞更重要,而樸素的茶器或裝飾也有它的美學。因此他主張以日本國內製作的茶具代替大陸傳來的高及茶具,以竹製花瓶取代高級唐瓷花瓶等。這種以精神面重於物質面、以樸素代替豪華的茶道思想之後被稱為「侘茶」。

新年と旧暦の正月の言い方を比較する

旧正月という概念が薄い、あるいは持っていない日本人には、
新暦の正月でも、旧暦の正月でも、言い方は同じだろうとか思って、
「(新暦の正月の)除夕」とか、「春節の元旦」と言ってしまうかもしれないけれども、
両者は混同できないみたいだよ。

新暦の場合は――大みそか「除夕」(chu2xi4)という言い方は特にない。
日本人が12月31日に「きょうは大みそかなんだ!」という場合、違う言い方をする必要がある。
12月31日をしいて表現すれば、「跨年夜」(kua4nian2ye4)という言葉もあるので、こういうのを使うことになると思う。
ただ、「跨年夜」は特に大みそかの夜という意味であって、もともと日本語で言うところの12月31日全日を指すニュアンスは薄い。
新暦の年末年始を祝うようになったのは最近のことで、「跨年夜」は古来からある言葉ではないよ。

それから、元旦(yuan2dan4)は新暦の正月(の朝)を指すようで、春節の元旦という言い方もない。
旧暦の正月当日は「初一」(chu1yi1)といったりするのが一般的だよ。
もちろん旧暦正月当日を「春節」(chun1jie2)と言うこともできるよ。
「春節」というのは、農暦正月当日、あるいは漠然とそのあたりの時期のことを指している言葉らしいよ。

つまり、こうなるということかと思う。

大晦日 新年
新暦 「跨年夜」 「元旦」
旧暦 「除夕」 「春節」「初一」

ちなみに、台湾では1月1日は「開国記念日」という祝日だよ。
ただ、この日を「開国記念日」だと声高に言うよりも、普通は「元旦」と言うだろうね……
台湾の新年」も見てね。

この手の話は意外にコンテンツを書いてきているので――
暇があったら、「春節前後の日付を表現する」「大みそかと新年の重要度」「台湾の新暦年越しイベント」「春節のこと」とかも見てみてね。

日本的茶道(2)

日本的喝茶的文化大約是在西元九世紀時由中國傳入,不過當時喝茶的人主要是一些受到唐文化影響的一些學者,一般人對茶的認知主要是停留在藥材或是一些儀式活動時才出現的東西,因此茶在當時的日本其實還沒有成為一般日常飲料。

後來到了十二世紀,日本的僧人榮西從大陸帶了一些茶粉以及茶種回到日本,開始推廣喝茶文化。當時榮西還寫了一本「喫茶養生記」的書來強調喝茶有益健康。之後,京都的栂尾和宇治等地區開始出現茶園,而喝茶文化從宗教界以及武家的生活圈開始擴散,最後一般庶民百姓也開始把喝茶當成一種嗜好。

隨著庶民喝茶文化的普及,在十四世紀初期,京都出現了一種叫作「鬥茶」的遊戲。這個遊戲是讓人喝茶,然後下注猜哪些茶是當地所產的茶,哪些茶不是,而猜贏的人則可以得到一些獎品。而這種遊戲隨著茶的種類的增多,玩法也會變得多樣化,簡單的玩法如「二種四服」指的是用四次試喝的機會來分辨兩種茶,而「四種十服」則是用十次試喝的機會來分辨出四種茶 (茶雖然只有四種,但是若加入重複的因素的話,結果就不只四種了),而全部猜對和部分猜對的獎賞會有所不同。

由於「鬥茶」造成一些人整天混在茶亭無所事事,因此在當時受到一些社會批判,而室町幕府開始下令禁止這類賭博行為,不過這種壓抑反而造成檯面下的鬥茶遊戲更加流行,一直到日本的戰國時代 (十六世紀左右) 才漸漸退流行。

當鬥茶遊戲盛行的同時,一些舉行鬥茶的茶亭主人為了營造氣氛,會在茶亭布置一些大陸的藝術品,讓客人一邊喝茶一邊欣賞這此來自於國外的精美藝術品。因此,日本人對於茶文化的認知開始超越單純的喝茶行為,提升到注重喝茶時的快樂氣氛以及藝術品鑑賞的層次。

註:
「四種十服」是當時鬥茶中最流行的一種玩法。首先主辦者要準備四種茶,而參加者一開始只能喝其中三種,喝完三種茶之後要把這些茶的味道記住,然後主辦者就會準備十杯茶來讓參加者來猜。而這十杯茶之中,四種茶的比例為3:3:3:1,即參加者事先喝過的每一種茶都有三杯,剩下的一杯則是沒有喝過的,結果從十種全沒中到十種全中,一共有1024種組合。

相關文章連結:
日本的茶道 (1)

春節前後の日付を表現する

春節の日付自体がわかっても、結局西暦で日付を言っていると、それが周りの人と違う言い方をしていることに気がつく。あるいは、日付の言い方が把握していないと、いつどういうことが行われているのかの日付感覚がいまいちぴんとこない。

大みそかは「除夕」(chu2xi4)と言うよ。あるいは「大年夜」(da4nian2ye4)という言い方もある。
台湾での大みそかは、特に大みそかの夜を指していることが多いよ。
大みそかの前日にも言い方があって、それは「小年夜」という。

ちなみに、「大晦日」という単語は辞書上は存在していなくて、「晦日」(hui4ri4)という言葉はある。それは旧暦の月末という意味。古語みたいなので、今は使われない。

春節当日は、「初一」だよ。
2日目からは「初○」と言えばいいらしい。
2日目は「初二」、3日目は「初三」、4日目は「初四」……と続く。
こういう言い方を延々と言い続けるというわけでもなく、10日目「初十」で終わる。
かといって「初十」まで律儀に言い続けるというものでもないらしくて、
普通の人は、大体「初五」「初六」ぐらいまでで言い終わっちゃうんじゃないかな。

こういう日付の言い方は、春節期間は西暦の日付のかわりに言われるよ。
マスコミを初め、台湾人の通常の会話の中で使われる。